2019年9月12日 (木)

89ersに立教生!

下記の記事を見つけました!

 

新聞で見た方もいらっしゃるのではないかと思いますが、「立教卒」というアピールが全くない記事だったので、スルーしている方も多いのではないでしょうか。

 

私が知る限り、89ersでは初の立教卒ではないかと思います。(過去にいたら、ごめんなさい。)

 

ぜひ、活躍して欲しいです!!

 

 

 【河北新報 2019年09月11日水曜日】

銀行員からプロバスケ選手へ B2仙台・阿部 石巻出身「被災地元気づけたい」

元銀行員のプロバスケットボール選手が誕生した。Bリーグ2部(B2)仙台の阿部翔太(25)は、仙台銀行を退職後、練習生を経て今季プロ契約をつかみ取った。開幕戦は21日。東日本大震災で打撃を受けた宮城県石巻市出身ということもあり、「プレーする姿で被災地を元気づけたい」と意気込む。

 身長190センチの大柄ながら、速攻に絡むことができるスピードが最大の強みだ。開幕へ向けた練習でも迫力のある動きを見せ、レギュラー取りへ必死に取り組んでいる。
 東北学院高(仙台市宮城野区)でセンターとして活躍し、2010年の全国高校選抜優勝大会で同校初の16強入りに貢献。進学した立大でも主力としてプレーした。
 震災時は高校2年生。石巻の実家にも津波が押し寄せ、通学に使っていた鉄路が被災したため卒業まで仙台市内で1人暮らしするなどした。プロ入りも視野にあったが、「宮城で復興に携われる仕事を」と16年春に仙台銀に入行した。
 1年目は本店で融資窓口を担当。デスクワークでは大きな体はさらに目立つ。2年目は石巻支店で営業活動に携わった。「お客さんの第一声は必ず『大きいね』か『何かスポーツやってるの?』だった」と振り返る。
 転機となったのは18年秋の福井国体だ。成年男子宮城チームの一員としてB2仙台との練習試合に出場し、プロを相手に納得のいくプレーができた。「頑張り次第でやっていけるのではないか」。抑え込んでいた気持ちが一気に膨らみ、退職届を提出した。
 10月から練習生となったが無給。貯金を切り崩しながらの生活を続けた。ひたむきな姿がチームに評価され、今年5月プロ契約を結んだ。
 これまで石巻市出身のプロバスケ選手はいない。「バスケ漬けの毎日。楽しくてたまらない。できることならずっと仙台でプレーしたい」と目を輝かせた。

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2019年9月 1日 (日)

2019年9月アイビー随筆

アイビー随筆9月号

 アイビー随筆「荒天」

              37年理学部卒 大内 建二

 9月は昔から台風来襲の月とされていた。「210日」や「220日」は慣用語で、台風は必ずこの日の前後数日の間に来襲するとされており、事実私が子供の頃は不思議にその通りであった。しかしここ20~30年来様相が変化している。地球温暖化のためか台風発生のメカニズムに狂いが出てきたようである。

 昭和29年以降、日本の台風観測は米軍の管轄から日本に移管されたが、当時は海上保安庁の気象観測船が南方洋上に数隻配置され、気象の定点観測を行い台風の予想進路もその情報に従っていたのである。ただこの定点観測船の乗り組みは尋常ではなく、台風最接近の海域での観測は「死の危険」と常に向かい合う過酷な環境にあったという。

 私の竹馬の友の一人に海上自衛隊の護衛艦乗りの士官がいた(数年前他界した)。彼は海上自衛隊の南極観測支援艦の「ふじ」や「しらせ」で合計7回も南極に行っている。海上自衛隊の記録保持者である。

 彼の体験談が凄い。南極に近づく直前の南緯60度付近の海域は年中暴風圏にある海域なのである。ここを通過するのは船の乗組員にとって相当の覚悟、それも観測艦は砕氷構造という特殊な構造のために、船底の構造が一般の船と大きく違い、そのためにローリング(横揺れ)は尋常ではないそうである。

 彼は航海科士官であるために常に艦橋勤務であるが、この暴風圏を通過する凡そ三日の間、艦のローリングは常に三十度を超すそうで、彼の経験では最大47度まで傾いたという。感覚としてはまさに「8000トンの艦が横倒しになり沈没する」という感覚になるそうである。あらゆる手摺りに掴まり、それでも船を進めるための指示を出さなければならないのだ。休憩時にベッドでの安眠など、激しいローリングのために体が投げ飛ばされそうになり、出来るわけがないという。正に不眠不休の三日間であるという。

 「任務と責任感が恐怖に打ち勝つ」三日間で、このような状態の三日間は食事は全て「にぎりめし」と「携帯口糧の缶詰」だそうだ。厨房では調理など出来るわけがないのである。手すりや柱に掴まりながら無理やり握り飯や缶詰を胃に押し込む作業を強いられるのである。

 かつての大型の南氷洋捕鯨母船の乗組員たちも同じ経験をしていたはずであるが、船体の構造が違うためにここまで過酷な事態にはならなかったそうだ。

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2019年8月 1日 (木)

2019年8月アイビー随筆

アイビー随筆8月号
 アイビー随筆「セミの声」
            37年理学部卒 大内 建二
 俳聖松尾芭蕉が「奥の細道」で詠んだ俳句の中に、山形県の山寺の立石寺で詠んだ「静かさや岩にしみいる蝉の声」という有名な句がある。これは芭蕉が元禄2年(1689年)5月27日(新暦の7月13日)に山寺訪問の際に詠んだ句であるが、それから240年後にこの俳句に関する一大論争が持ち上がったのである。
 山形県上山出身の歌人で精神科医の斎藤茂吉(医師で小説家の北杜夫の父)と、東北帝国大学教授小宮豊隆氏との間で昭和4年に「この蝉は何蝉か?」と言う他愛もないことで論争が勃発したのであった。
 この論争は3年後に決着がついたが、決着の行く先は「ニイニイゼミ」説であった。斎藤茂吉は「アブラゼミ説」を譲らず、小宮教授は「ニイニイゼミ説」を譲らなかったのである。
 こんなことは子供たちに聞けば簡単に決着がつくはずなのである。東北地方でアブラゼミが鳴きだすのは7月下旬(7月20日以降)は常識。斎藤茂吉は早くから東京に住んでおり、東京地方でアブラゼミが鳴きだすのは7月上旬頃からである。夏休みに入る頃はアブラゼミはワンワン鳴いていたことをよく覚えている。そして不思議にこの頃になるとニイニイゼミの声は聞かれなくなるのだ。
 ただ芭蕉がこの句を詠んだ7月半ばは確かに両蝉の「端境期?」である。論争もムベなるかなである。 近年温暖化の影響かセミの生息地域に変化が出てきているのである。ミンミンゼミを一回り大型にしたような「クマゼミ」は、本来は近畿地方以西の暖かい地域にしか生息していなかったのであるが、近年関東地方南部でもクマゼミの声が聞かれるようになったそうだ。「シワシワ」という独特の鳴き声から、山口県や一部九州地方ではこのセミを「ワシワシゼミ」とも呼んでいる。私が転勤で広島に住んでいた頃、夏になると朝から自宅近辺ではこのセミの大合唱が始まりうるさかったことを覚えている。

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2019年7月 1日 (月)

2019年7月アイビー随筆

アイビー随筆「山岳展望」

            37年 理学部卒 大内 建二

 今年の10連休の最中の5月4日、無風のあまりの上天気に誘われ、大好きな飛行機でも見に行こうかと思い、長町駅から仙台空港駅まで電車で出かけた。20分弱で仙台空港駅に着いて驚いた。

32年ぶりに訪れた仙台空港は大変化。当時は仙台市内からバスで仙台空港まで行かなければならなかったが、今は改札を出ると何とすぐ目の前がチェックインカウンター。日本中で最も便利な空港だ。

 幾つもの売店やレストランの賑わいにひと驚き。エレベーターで屋上展望デッキに出て驚いた。飛行機を見るどころではなかった。快晴の何処までも澄み渡る穏やかな空の下、遥か北には何と雪を被った栗駒山が見えるではないか。そして七ツ森の独特の山塊の左に泉ヶ岳、その左に雪を頂いた船形山の雄姿。そしてそれに続き大東岳に面白山、更に山形神室岳から雁戸山の連なり、そして雪を頂いた蔵王連峰の雄姿、目を左に移すと驚いた。遥か先には福島県の名峰吾妻山塊が見えるではないか。北から南までその距離160キロメートル以上ある。

 仙台空港の展望デッキがこんなに素晴らしい山岳展望の場所とは思いもよらなかった。私は登山自体は好きではないがいわゆる「山岳展望」は大好きである。「あの山は何々山、こちらの山塊は何々山の群れ」等と「山座同定(山の名前を確認すること)」するのが大好きで、車であちこちの峠道に行っては山岳展望を行うのは楽しい。但し日本中の山の位置と地理と名前を熟知していないと出来ない技である。些か自慢ではある

 私は国土地理院発行の二万五千分の一や五万分の一の地図を眺めるのが大好きである。一枚の地図を眺めると文庫本一冊を読んだほどの感慨や妄想が浮かんでくる。おかげで我が家の地域別の大型地図帳「マップル」は既にボロボロである。

 新幹線で東京に向かう時には様々な山岳展望が楽しめる。利根川の橋梁を渡る頃前方に奥多摩の山塊が見えてくるが、その中で御岳山(ミタケサン)神社のご神体の山である大岳山(オオダケサン)が潜水艦の司令塔のように見えてくると、これは東京が近いサインである。

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2019年6月24日 (月)

小旅行会 南会津

令和元年6月16日、17日福島県南会津へ旅行しました。参加人数14名です。

 七十七銀行本店前を午前9時出発、11時ころ白河に到着しました。「小峰城」、「白河の関跡」、「南湖公園」を散策して、宿泊地の小豆温泉「花木の宿」に着いたのが午後5時、早速温泉へ。湯質、湯温、湯量、露天風呂の雰囲気といい申し分なく大満足でした。

 17日は午前8時半宿を出発、近くの奇岩「屏風岩」と「大桃の舞台」を見学してから、

ヒメサユリ群生で有名な「高清水自然公園」へ。しっとりとした山の空気の中、園内の木道を歩きました。会津若松市近くの伊佐須美神社境内では色とりどりのアヤメを観賞。市内のフレンチレストランでランチをとった後、最後に会津松平の庭園「御薬園」を訪れ、庭園を眺めながらゆっくり抹茶を堪能してから帰路につき、仙台駅前に午後6時ころ到着解散となりました。

 梅雨時にもかかわらず、あまり雨にも降られず楽しい旅行でした。

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2019年6月 6日 (木)

2019年6月アイビー随筆

アイビー随筆6月号
 アイビー随筆「埋もれ木細工」
                 37年 理学部卒 大内建二
 仙台には三つの有名な工芸品があった。「あった」というのは現在では僅かにその命脈が保たれているだけで、何時消えるかわからない燈明のような存在になっているからである。三つの工芸品とは「堤焼」、「玉虫塗」そして「埋もれ木細工」である。中でも玉虫塗はその奥深い色合いが何とも上品な塗り物で、正に廃れてはならない「JAPAN(日本特有の漆塗りの英語表記)」なのである。一方「埋もれ木細工」は亜炭を加工して作り上げた置物や壁掛けなどの加工品であるが、現在ではほとんど見ることが出来ない。現在は秋保に細工人が一人、細々と伝統細工を続けているだけである。
 亜炭は石炭の中でも最も若年齢の、いわば石炭の幼稚園生とでもいうべき存在のものである。熱量の高い瀝青炭は二億年以上前の古生代の石炭紀の森林の化石であるのに対し、亜炭は500万年前の後期新生代の植物の「化石」で、まだ熟成されていない石炭なのである。
 亜炭は炭化が進んでおらず着火性が悪く熱量も低いが、戦時中や終戦後の燃料不足時代に薪の代わりに大量に使われたのだ。宮城県は日本でも有数の亜炭産出地で、仙台の太白区の八木山や大年寺山周辺は亜炭の産出地として有名であったのだ。事実太白区向山や八木山南、芦の口、青山、土手内などには大小無数の亜炭採掘場があった。私が会社の仙台支店に転勤して来た昭和55年頃、住まいのあった芦の口地区でも、すぐ裏山の崖には幾つものトンネルの跡のようなものが存在したが、これらは皆付近の住人が掘った自家用亜炭の採掘用のトンネルだったのだ。これらの中でも最大級の亜炭採掘場は八木山南住宅地近くにあったトンネルで、ここで掘り出された亜炭は専用に敷かれた線路上をトロッコで西多賀(現在の国道286号西多賀交差点付近)迄運び出され、健在であった秋保電鉄の貨物列車で長町まで運ばれ、仙台市電の貨車で仙台市内まで運ばれ市内の家屋の風呂や台所の竈の燃料となっていたのである。
 亜炭は細工を施し磨き上げると黒く光沢のある見事な置物になるが、仙台藩の昔から貧乏武士達の内職工芸品として有名であったのである。
 昭和40年代に入る頃からのガスや石油ストーブの普及で亜炭の需要は急激に減少し、それと共に埋もれ木細工も消えていったのだ。
 国道4号線沿いの三本木付近にある亜炭資料館には、10トンという巨大な亜炭の塊が展示されている。一度ご覧あれ、ビックリします。

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2019年6月 1日 (土)

第8回在仙東京六大学平成会

5月24日金曜日びすとろぼんてんにて

第8回在仙東京六大学平成会が開催されました。

 

持ち回りで開催されるこの平成会。

今回幹事は東大さんでした。

 

今回も50名近く集まり、とても賑やかな会になりました。

 

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今回の平成会はオーバーエイジ枠が設けられました。

平成卒じゃないけど、参加したい方はぜひ、お声掛け下さい!

 

 

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場所を変えて、二次会です。

二次会に駆けつけてくれた若者もいました!!

 

 

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2019年5月31日 (金)

2019年5月アイビー会

5月15日久々のアイビー会です。

 

総会案内の作業した後のアイビー会です。

 

作業の後のビールは余計に美味しいです!

 

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2019年5月 7日 (火)

2019年5月アイビー随筆

アイビー随筆5月号
 アイビー随筆「ステラポラリス」
             37年 理学部卒 大内 建二
 毎年5月になると一つの絶景の記憶が蘇る。快晴の駿河湾越しに望まれる白雪をいただいた富士山を背景に、伊豆の西海岸の木負(キショウ)海岸に停泊する純白の大型ホテルシップ「スカンジナビア」号である。
 この船は1927年にスエーデンで建造されたクルーズ専用船「ステラ・ポラリス(北極星)」である。クルーズという最高級の娯楽がヨーロッパやアメリカの王侯貴族や富豪の娯楽としてはやり出した当時、彼らのために特別に建造された最高級のクルーズ専用船であったのだ。
 1969年に西武鉄道グループの(株)コクドが伊豆観光の目玉施設として老朽化した本船を買い取り、木負海岸に着岸させホテルシップとしての営業を開始したのであった。以来ホテルシップ「スカンジナビア号」と名前を変えたこの船は大人気となり、(株)コクドの夢は適えられたのであった。
 総トン数5101トンのこの純白の船は古今世界の名船の中でもトップクラスの有名な船で、旅客は全てヨーロッパ王室の人々やヨーロッパやアメリカの富豪や名優達であった。
 船内の公室も船室も贅をつくした北欧風のデザインの仕上がりで、船内に入っただけでも最高級のホテルに入った感じがするのであった。船首側に位置するラウンジは木目のモザイク加工の磨き上げられた壁に覆われ、深々とした絨毯の上には、スエーデン色というべきライトブルーの生地の肘掛椅子やソファーが並ぶ。それに続くメインエントランスの壁の全面は「木目込み細工」の芸術品のような仕上がりとなっている。
 その隣のスモーキングルームも重厚で上品な雰囲気で、周囲の厚手のガラスの全てには北欧を代表する悲劇の物語「ペールギュント」を題材にしたエッチングが施されている。
 この船の広いダイニングルームは宿泊客のレストランであると同時に、昼は本場のバイキング料理(スモーガスボード)を提供するレストランとして観光客達の人気の的であった。私もかつて仕事上や私的で数回このレストランを訪れた。本場のスモーガスボード料理は素晴らしい味である。そんじょそこらの高級バイキング料理と比べても雲泥の差があった。私が座る席やテーブルには、かつてどのような王侯貴族や富豪が着席したのかと思うと、感慨深いものがあった。
 この船は保存記念船としてスエーデンに再び買い取られ故国に向かう途中、1992年に紀伊半島沖で荒天のために漏水が激しく沈没した。「浮かぶ世界遺産」とでもいうべき船であった。船好きの私には忘れられない船である。

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2019年4月 2日 (火)

2019年4月アイビー随筆

アイビー随筆4月号

 アイビー随筆「夜汽車」   37年理学部卒

                  大内 建二

 「夜汽車」という言葉は今ではほぼ死語になっている。演歌の歌詞の中では時々聞かれるが、そこに醸し出される背景は哀愁のこもった情景である。「夜汽車の窓のはるか遠くに見える人家の灯火」、などはその代表的な雰囲気であろう。

 夜汽車とは同じ夜行列車でも特急寝台列車などを指すものではない。昭和40年代頃まで普通に見られた夜行の長距離鈍行列車を指すのである。急行券や寝台券を買う余裕のない貧乏学生にとってはかけがえのない「動く安宿」であったのだ。故郷に帰省する、或いは長距離旅行をする場合には学生の格好の移動手段であった。

 記録に残る日本最長距離の「夜汽車」は、昭和30年代前半まで存在した「東京発門司行」の普通列車であった。全行程1100㎞、所要時間31時間41分。午後2時20分に東京駅を出発し門司着が翌日の22時1分である。

 私が大学2年生の時に所属するサークルに宮崎県都城出身の新入部員が入部してきた。小柄だが頑固そうな頑丈な体躯の学生だ。彼は年に冬休みだけ故郷に帰省した。往復の交通費を倹約しさらに長距離の急行料金を倹約するために帰省は年一回とし、わざわざ往復の東京・都城間も普通鈍行列車に1500㎞乗車したのだ。苦難の旅だ。

往復交通費は現在の価格にして鈍行列車に乗っても30、000円はかかった。急行に乗ればさらに片道6,000円もする高い急行券を買わなければならず、彼の年に一回の帰省の往復は、東京から都城までの往復を常に門司駅で日豊本線乗り継ぎの「鈍行列車」を使ったのである。片道全所要時間43時間04分。二昼夜鈍行「夜汽車」の旅である。九州を代表する我慢強い「肥後もっこす」のような頑固人間でなければ、音を上げる技である。

 先日ツラツラと指折り数えたら、私は生涯で35回も「夜汽車」に乗っていた。最長時間は上野から盛岡の二つ先の滝沢駅までの544・3㎞。鉄道ファンであるからこそ出来ることで、所要時間は14時間45分で食べた駅弁は二食。寝不足と尻が痛くなった記憶が蘇ったが、都城男児のまだ三分の一の距離なのだ。

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