2023年12月 4日 (月)

2023年12月アイビー随筆

アイビー随筆 12月号 

 アイビー随筆「クリスマスディナー」 

               37年理学部卒 

                  大内 建二 

 立教生時代の私はかなり真面目(?)であったように記憶する。12月24日「クリスマスイブ」の日は、午後4時からタッカーホールで開催される「クリスマス大晩祈」(クリスマスミサ)に出席し、心の邪気?を払い家路についた。12月の午後5時は既に暗い。本館前の二本の巨木のヒマラヤスギはクリスマスイルミネーションで飾られ、荘厳な雰囲気を醸し出す(この姿は現在はクリスマス時の池袋の恒例名所になっていると聞いている)。 

 一時間後に自宅にたどり着くが、この日は超多忙の父親も夕食の席に着く。クリスチャンの父親が短く主の祈りを唱え、家族で讃美歌を一曲歌った後に、家族そろって母の手作りの「クリスマス料理?」を家族で楽しく分け合い食べる。しかしどのような料理であったかは全く記憶がない。 

 現在の我が家のクリスマス晩餐?はどうか? 洗礼も受けていない小生が「主の祈り」を唱え讃美歌を歌うこともなく、家族3人の細やかなクリスマスディナータイムである。我が家では伝統的にクリスマスケーキは「自作」である。自作とは言っても既成の大型のスポンジケーキを買い込み、大量の生クリームを作り、スポンジケーキの上と輪切りにされた中間に苦心して「塗りたくる」。そして輪切りの中間のクリームの上には薄切りのイチゴを並べる。 毎度の娘との共同作業であるが結構難しい。 

 既成の各種飾り物で周囲を飾り、市販のケーキにも負けないくらいの如何にも「立派」?なクリスマス・デコレーションケーキに仕上げるのだ(但しボリュームがあるので数日かけて完食する)。 

 メインディッシュは既成のローストされた「鶏もも肉」である。特性のポテトサラダとコーンスープでディナーは準備完了である。「天にまします我らが父よーーー」の主の祈りもなく食事開始。 

 クリスマスディナーには思い出がある。中学生の頃、私の実家(世田谷区等々力)の道路を挟んだ向かい側の家に、米空軍立川基地に勤務する軍属夫婦(ご主人はアメリカ人で奥さんは日本人)が間借りして住んでいた。ある日曜日、父親が家の前で偶然にその米人旦那と対面。英語が喋れる父親はしばらくその米国人と立ち話をしたのだ。それがきっかけで父親は以後休日などに時々彼と立ち話をするようになった。 

 その年のクリスマス前に、彼は米国の実家の話を始め、涙ながらに楽しい家族クリスマスの思い出を話し出したそうである。父親はそれを聞き、その年のクリスマスに彼ら夫婦を我が家に招待し、ささやかながらクリスマス食事会を開くことになったのだ。  

 当日の夜、彼ら夫婦を我が家に招待し、我が家の家族と共に8畳の客間で細やかながら俄かの「日米家族クリスマス食事会」を開いた。私は中学3年生であった(昭和28年)。 

 彼はこの日の和気あいあいの出来事がよほど楽しかったらしく、彼の奥さんの話によると、何時もこの時の楽しかったことを話していたそうである。しかし彼は翌年に任期が来て夫婦はアメリカに帰国したのだ。その後もしばらくの間双方でのクリスマスカードの交換が続いたが、10年後に当人が故人となった知らせが奥さんから届いた。 

 この日のディナーの内容は全く覚えていないが、ディナーの一つに母の手作りの大きな特製の「ナスの肉詰め」があったことは覚えている。彼はよほどこれが気に入ったらしく、日本人の奥さんの話によると、常日頃「アレを作ってくれ」と彼女にねだったそうで、ある時奥さんが母親に「ナスの肉詰」の作り方を教わりに来たことがあった。 

 私の奥さんも「ナスの肉詰め」は得意であるが、これを手伝わされるのは私で聊かめんどくさい。肉の詰め方や美味しくするために、私の母親譲りのコツがあるのだ。作りながら60年以上も前の出来事を思い出す。 

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2023年11月30日 (木)

2023年11月アイビー会(ボジョレーヌーボーを嗜む会)

11月16日ボジョレーヌーボー解禁日にアイビー会が開催されました。

年に一度のワインを嗜む会です。

普段は焼酎の蕎麦湯割を飲む皆様もこの日ばかりはワインで乾杯です。

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2023年11月 5日 (日)

2023年11月アイビー随筆

アイビー随筆11月号 

 アイビー随筆「野蒜築港跡」 

37年 理学部卒  

                 大内 建二 

 聞き慣れない地名と思いますが「ノビルチクコウアト」と読みます。場所は東松島市の鳴瀬川河口左岸に広がる三角州の荒れ地で、ここは近代日本産業の発展の一幕を垣間見る、知られざる近代日本の歴史的遺産でもあるのだ。 

しかし宮城県人でもこの地名と場所を知っている人は限られるであろう。ましてや現地を訪れた事のある人はさらに限られるであろう。ここはまさに明治初年に展開された日本の国家的大規模土木工事の忘れられた遺産の地なのだ。 

 明治の初め、コメの一大産地である旧伊達藩の米や建材類を東京まで輸送するルートの開発が始まり、鉄道の開通以前に船運による輸送が大々的に計画された。その計画とは、北上川とその支流である迫川や鳴瀬川、更に江合川を使い宮城県の穀倉地帯の米や材木を石巻まで運び、そこから船運で東京まで輸送するという日本の食料と資材輸送の大動脈を構築しようとする構想であった。 

 しかし北上川河口の石巻は、拠点港にするには地形的に不利で、その打開策として北上川の下流域右岸から西方の鳴瀬川河口の野蒜に向けて運河を開削し、鳴瀬川河口の野蒜三角州に新たに港(野蒜港)を建設してここと連結、膨大な量の米や木材、石材を東京に向けて送り出そうとしたのだ。新たに開削される運河は「北上運河」(現存)と呼ばれることになった。 

 また成瀬川河口右岸からは松島湾に向けて新たに「東名(トウナ)運河」(現存)という新しい運河も開削し、石巻から塩釜まで米や木材を船運で結ぶ新たな輸送ルートも計画され工事が開始されたのだ。 

 しかし北上運河と東名運河が完成した直後の明治17年に、東北地方は未曽有の台風に襲われ、激浪で鳴瀬川河口に建設中の野蒜港の堤防や施設の大半が大規模に破壊したのだ。破壊個所の修復は極めて大規模に及ぶことになり、当時の日本政府には修理予算の余力もなく、またその後の東北本線の塩釜までの開通もあり、北上運河と東名運河の利用により石巻から塩釜までの物資輸送が容易となり、わざわざ野蒜築港を建設する必要性も無くなり、野蒜築港の建設計画は放棄されることになった。 

 現在成瀬川の河口の左岸に、野蒜港を建設・拡張しようとした広大な三角州の平坦な跡地が現存している。一部にレンガ造りの構造物跡も見られるので、ドライブがてら一度見学されては如何であろう。鳴瀬川河口の右岸の堤防上には「野蒜築港記念館」という小さな博物館があるが、東日本大震災の大津波で消滅した可能性があり、その後訪れることもなかったので確認していない。ここでは野蒜築港建設に関わる極めて貴重な多数の資料を見ることが出来た。 

 余談であるが、この地は航空自衛隊の松島基地の3000メートル滑走路の西端の延長線上に位置している。本基地は航空自衛隊の曲技飛行チーム「ブルーインパルス」の拠点基地で、時には超低空で離着陸する同チームの機体を堪能することも出来る。正に航空ファンのカメラショットの隠れた垂涎の地でもあるのだ。チャンスに恵まれれば、上空で展開される曲技飛行の訓練を見ることも出来る。 

 尚完成した北上運河と東名運河は、松島湾を隔て貞山堀に繫がり、北上川河口から阿武隈川河口までを連絡する、全長42キロメートルに達する日本最長の「知られざる内陸運河」として存在している。 

 尚この三つの運河は東日本大震災の際に全区間が水没し、悲惨な状況になった。しかし幸いにも運河自体には大きな破損は無かった。私は被災直後に船舶関係書籍の某出版社の依頼を受け、一日がかりで運河全区間の被災状況の写真撮影を行ったが、運河に流れ込んだ数々の「残骸」を目撃し仰天した。 

仙石線の被災の跡も生々しい野蒜駅付近では、本来の位置から200mも流された近隣の大きな寺「長音寺」の本堂が、運河の中に浮かんでいたのである。更に私が大好きだった静かなたたずまいの太白区荒浜の集落は跡形もなく、付近の農家の庭先には何と百トンほどの大きさの漁船が横倒しになっているではないか。 

この時の運河全区間の一連の惨状を写した写真は、船舶専門月間誌「世界の艦船」の平成23年8月号で紹介されている。ご興味ある方はご覧ください。 

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2023年11月 3日 (金)

宮城立教会 2023年秋 ゴルフコンペ

10月29日宮城立教会ゴルフコンペが

富谷カントリークラブで開催されました。

雲に覆われた天気ではありましたが、

なんとか、最後まで降られずに、

無事、最後まで回ることができました。

 

今回は初参加の方が3名もいて、賑やかなコンペになりました。

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最前列に1位から3位の方が並んで記念撮影!

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2023年10月 3日 (火)

2023年10月アイビー随筆

アイビー随筆10月号 

 アイビー随筆「変わった野球」

37年 理学部卒  

                 大内 建二 

 野球のシーズンもそろそろ終わりであるが、近年、公園などの広場で野球を楽しんでいる子供たちを見かけることが極めて少なくなったのが気になる。私の住む長町のマンションの目の前には、八本松公園という野球やサッカーが十分に出来るグラウンドを持つ公園があるが、休みの日でも子供たちがキャッチボールやノックをして楽しんでいる姿を見かけることはほとんどない。広場を使って楽しんでいるのはグランドゴルフを楽しむ近所の高齢者である。元気一杯で楽しそうだ。 

 それにしても「少なくない」はずの子供たちは何処へ行ってしまったのだろうか。家に閉じこもってゲームに夢中になっているのだろうか。昔の話を持ち出して申し訳ないが、私たちの少年時代はゲーム遊びなどないために、日暮れまで常に外で遊んでいた。特に野球には夢中であった。 

小学校の4年生の昭和二十三年頃、日本ではプロ野球が復活した。ジャイアンツの川上や青田、阪神の藤村や若林、中日の西沢が大活躍していた。彼らは皆戦場の生き残りであった。当時の日本中の少年たちが彼らに憧れ野球が一気に流行のスポーツの最先端になった。 

 傑作な話だが、昭和25年(千九百五十年)にアメリカのマイナーチームの「サンフランシスコ・シールス」というチームが来日した。オドール監督が指揮。 

 全国で日本プロ野球チームと10試合を展開したが、日本チームが勝利したのは全日本チームとの僅かに一回!一勝九敗の惨敗である。惨憺たる結果であったが、これが当時のアメリカの二軍チームにも敵わない日本プロ野球の実力だったのだ! 

 話を戻そう。野球が出来るほどの広いグランドがない当時の我々日本中の野球好きの少年達は考えた。そこで考え出され、全国的に流行した野球がある。「三角ベース」と「ゴロベース」である。ご存知だろうか? 

 「三角ベース」は両チーム夫々5名いればゲームが出来た。二塁ベースを省いて三角にして野球を楽しむのだ。ホームベースを中心に90度角ではなく60度角にベースを配置する。守備はピッチャーと一塁・二塁。内野のショートとセカンドは無し。外野はセンターは無くレフトとライトだけ。キャッチャーは打撃側がやる。そのためにフォアボールは無いが三振はある。両軍で10人もいればゲームは出来る。子供は遊び作りの天才である。随分楽しみましたね(人数に余裕があればショートを入れる)。 

 「ゴロベース」はもっと簡単。道具はゴムボール(ソフトテニスのボール)だけ。ベース配置も「三角ベース」と同じだが塁間の距離は格段に短い。遊ぶ場所は多くの場合、学校の校庭であった。並んで植わっている桜や松の木が一塁と三塁ベースである。一チーム最低四名もいれば試合ができる。一塁手や三塁手はいなくとも、打ったボールがゴロであれば、捕球したボールを一塁や三塁手に代わる「木」に、走者より早く球をぶつければ走者や打者は「アウト」なのである。 

 ピッチャーが地面に書いたホームベースに向けてゴムボールを転がす。バットは無い。バッター?は腰をかがめ「手の平」を地面すれすれにして水平に振り、ボールを打つのだ。打ったボールは「存外」に遠くまで飛ぶのだ。 

 こういう「野球擬き」遊びにも必ず「達人」が現れるのだ。とくに「ゴロベース」では転がすボールにカーブやシュート擬きの動きをする球を転がすピッチャーも現れた(ボールの握り方にコツがある)。バット代わりの手の平も、親指の第二関節をうまく使って遠くまで球を飛ばす「名人」が誕生する。ただ手の皮をすりむく傷を負う危険性はある。 

 「ゴロベース」は小学校の高学年生の昼休みの定番遊びで、良い場所(木の太さと並びが良い)を確保するために、「如何に早く」給食を済ませ教室を飛び出し、良い場所を確保するかの技も必要だったのだ。不思議だが、それが出来る達人は必ずクラスに一人はいたものだ。我が6年2組にもずば抜けた早食いの天才がおり、常にゴロベースの場所は確保されていた。その達人「コーちゃん」も今は故人である。 

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2023年9月30日 (土)

第38回東北地区校友の集い

9月16日弘前パークホテルにて

第38回東北地区校友の集いが開催されました。

 

コロナ禍でずっと延期されていて、4年ぶりの開催でした。

 

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第一部の講演会 野澤伸平氏(昭45法)
㈱山川出版取締役会長

 

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次年度は秋田セントポールクラブが幹事です。

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2023年9月 4日 (月)

2023年9月アイビー随筆

アイビー随筆9月号

  アイビー随筆「仙台土産」

                    37年 理学部卒

                       大内 建二

 現在仙台を訪れる観光客や旅行者が手にするお土産は何だろう?と思う時、すぐに思い浮かぶのが「萩の月」である。独特の絵柄の紙袋が目立ち、一見して「仙台土産を持ち帰るのだな」と判断できる。しかし地元の人はこの有名なお菓子を食する機会はほとんどないはずだ。小生も過去に二~三回しか食べたことがない。しかしこの銘菓、更に美味しく食べられる工夫を発見した!冷蔵庫の冷凍室で一日凍らすと、周囲はそのままフワフワだが中のカスタードがアイスクリームのように変化し、大変に美味しくなる! 一度お試しあれ。

 「萩の月」に次ぐ仙台銘菓は「支倉焼」と「白松が最中」であろう。しかし仙台のこの三大銘菓も全てが戦後に出来たお菓子で、戦前からある銘菓と言えるものは何かを問うたら、ほとんどの人は「?」となるであろう。事実その通りなのだ。戦前からある仙台を代表するお菓子と言えば、「九重(ココノエ)」と「仙台駄菓子(これは戦後に付けられた名前)」ではなかろうか。何れもお菓子としては実に冴えない品である。特に「九重」はお菓子というには全く異質な物であり、現在でも細々と作られているらしいが、今やお菓子の絶滅危惧種である。近年の仙台人でも知らない人が多いのではなかろうか。様々な味の付いた小さな「あられ」状のものを湯呑に入れ、それにお湯を注ぐと様々な味の飲み物になる。という他愛もないお菓子?である。

 「仙台駄菓子」もそれこそ様々な揚げ物菓子を総称したようなもので、昔は名前すらなかったものを、戦後になり「仙台駄菓子」として販売したことから、この駄菓子が知られるようになったのだが、生産量が少なく、また現代人の好みにも合いにくく、このお菓子も絶滅危惧種となりつつあるのだ。

「白松の羊羹」も代表的仙台のお菓子だ。中でも「栗羊羹」は絶品だが一本の値段が高価で簡単には手が出ない。東京の「虎屋の羊羹」はあまりにも有名だが、これは正に超・超高級品お菓子で庶民のお茶受けとしては口が曲がりそうな高級品である。一本が5,000円を軽くオーバーするのだ。

 岩手県には隠れた銘菓がある。盛岡の「豆銀糖」と大船渡の「鴎の卵」だ。「豆銀糖」は江戸時代後期に南部藩が兵糧食として考え出した食べ物がその先祖とされている。その姿は強いて言えば宮城県自慢の「ずんだ」の超硬練菓子バージョンと言えそうで、「ずんだ」の本家である宮城のお菓子にしたいくらいである。岩手県南部名産の青大豆を茹で潰し、砂糖を加え多少の飴を加え加圧し棒状に成形しただけの素朴な「菓子」で、大豆の味が口中に溢れる素朴な「菓子」であるが、その姿に似合わず現在では結構高値で販売されている。

 一方「鴎の卵」は昭和20年代の後半に、大船渡駅の目の前にある「斎藤製菓」が売り出した菓子である。

発売当初は鶏卵より大型で、ガチョウの卵ほどの大きさがあったが次第に小型になり、現在ではチャボの卵ほどの大きさに縮小してしまった。昔の「鴎の卵」を食べたことがあるが、確かに菓子としては大きい印象があり食べ応えがあった。この菓子、今では大船渡に行かなくとも岩手の銘菓として盛岡駅でも売られているが、見かけによらず値段が高い。この銘菓、大きな活躍をしたことを或いはご存知かもしれない。東日本大震災の時、津波で被災し避難所に避難した大船渡市民に対し、斎藤製菓が在庫の「鴎の卵」数万個を避難者の空腹凌ぎに無償で全量放出した美談がある。

 山形名物の菓子としては「のし梅」がある。厚さ4ミリ、縦横5センチ、3センチほどの梅味のする半透明の硬いゼリー状の菓子であるが、実は茨城県水戸の銘菓として「全く同じもの」がその名も「水戸のし梅」として販売されている。

 山形県ではこの菓子は山形藩祖の最上義光公が発案したものだと強調し、一方の水戸では恐れ多くも水戸光圀公が発案したものだ、と双方譲らずの構えで今に至っている。何れも味は全く同じで「甘酸っぱい」美味しいお菓子である。

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2023年8月 4日 (金)

立教大学硬式野球部仙台遠征

8月2日立教大学硬式野球部が仙台遠征すると情報が入って来たので、暑い暑い中、ちょっと顔を出してきました。

というのも、以前、日本製紙石巻野球部の監督をなさっていた木村さん(S60卒)がコーチとして同行するとの事。

石巻にいらした頃、石巻まで行って、練習を見させてもらったり、都市対抗野球の予選・本戦を応援しに行ったりとずいぶん楽しませてもらいました。

その後、中々会えることもなかったので、ご挨拶かねて行ってきました。

 

当日は東北福祉大学とのオープン戦。

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同行の野球オタク兼カメラマンさんの雑記です。

「試合模様は・・・・
ストレートが150㎞/hを超え、スライダーを交えてくるいいピッチャーではあるけど、初回の1,2番の連続ヒット以降6者連続三振など、序盤は立教が苦戦。5回にタイムリーヒットで1点を返したところで、酷暑のため観戦者2名は脱落…

今、若者中心に仙台の土産物として人気の高い、喜久福のずんだを遠征参加者人数分差し入れてきました。アニメーション作品「呪術廻戦」の主人公五条悟の大好物ということで作中で紹介されたお菓子で、スタッフの学生さんもご存じでした。ちなみにこのアニメーションの一部工程は仙台駅東口で作られている仙台に縁のあるものです。」

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立教野球部でも、取り上げてもらっています!

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2023年8月 3日 (木)

2023年8月アイビー随筆

アイビー随筆 8月号 

 アイビー随筆「おもしろ仙台地名」 

                   37年 理学部卒 

                     大内 建二 

 

 仙台には何時の頃からか次のような「語呂合わせ」のような隠れた地名紹介がある。「七崎・七坂・八小路」。この語呂合わせ言葉は何時の頃から言われ出したのかは定かでない。「七崎」とはよく考えられた呼び名で次のようになっている。

 広瀬川は仙台市内の郷六付近から極端な屈曲状態の繰り返しとなり、愛宕大橋付近からなだらかな直線の流れとなり名取川に繫がって行く。この川の屈曲を演出する岬のような出っ張りを、仙台人は古来「岬」と称していたのだ。おもな「岬」は根岸に突き出た「大年寺山」が造り出す「茂ケ崎」。仙台城本丸がある「青葉山」の突き出しの「青葉ケ崎」。尚絅学院がある澱橋付近の突き出しの「松ヶ崎」。三居沢付近の突き出しの「鴉ケ崎(カラスがサキ)」。北山五山の一つである鹿島神宮がある突き出しの「鹿島ケ崎」等々である。

 「七坂」とは現在の町の様子からは想像しがたいが、昭和初期頃までの仙台は多くの小道が点在し、多くの坂道が改修されることなく点在していたのだ。「七坂」の代表が「大坂」である。西公園付近から仙台城に向かう下りの急坂。これが「大坂」。また仙台大神宮付近から広瀬川の大屈曲点である枇杷首に向かって下る急坂が「藤ケ坂」。尚絅学院付近から淀み橋に向かって下る急坂が「新坂」。花京院付近から元寺小路(アエルビル付近)に向かって下る坂が「茂一ケ坂」。当時付近には「茂一」という著名な盲目の按摩が住んでいたことからつけられた名前。現在では片側四車線の大通りとなり、坂という感じが完全に薄れている。「石名坂」は河原町近くの大安寺下から舟丁に向かって下る坂。当時付近には遊郭があり「石名」という人気の遊女がいたことからつけられたと言われている。その他「扇坂」や「元貞坂」等がある。

 「八小路(ヤコウジと読む)」には、今に伝わる唯一の町名として「連坊小路」がある。連坊小路は五橋付近から東に進む、今では交通量の多い四車線道路で、二華中(旧二女高)前から一高前を通る通りあるが、かつては多くの寺の宿坊が連なり、そこから「連坊」と付けられたものである。俗説としては、かつて旧制第二女子高等女学校(後の二女高)と旧制第一中学校(現在の一高)の学生同士が恋をはぐくみ「恋慕」しあったことから、「恋慕小路=レンボ小路」と呼ばれたという話もある。

 「狐小路」は現在の高等裁判所や片平町小学校の東側を通り晩翠通りに向かう道で、かつては付近には木立・林が点在し多くの狐が住んでいたことから何時とはなく「狐小路」と付けられたもの。私の母親は大正時代初め頃に片平町小学校に通っていたが、よく校庭で狐を見かけたそうである。

 「櫻小路」は現在の東北大学片平キャンパス内にあった道で、今は存在しない。「谷地小路」は現在の東七番町通りで、当時の付近は湿地が多く谷地の地名で呼ばれていたそうである。その他には「元寺小路」や「野千小路」、「大名小路」があるが、「大名小路」は現在の片平町通り。東北大学正門前の道で、伊達家の重臣の屋敷が並び、現在の高等裁判所は原田甲斐の屋敷跡、仙台大神宮は重臣中の重心「伊達安芸」の屋敷跡であった。

 仙台市内の町名の大変革の前には、現在の上杉1丁目付近は「同心丁」と呼ばれていたが、その名の通り現在の「巡査」に相当する「同心」の小屋敷が集中していた場所。ちなみに「同心」の上役が「与力」で現在の警察署長に相当。その上役が「目付」である。幕府の組織には「大目付」があるが、これは全国の大名を監視する役目を担った。

 広瀬橋の近くにその存在が忘れられた小さな神社(祠)がある。この神社は別名「旅立ち神社」(正式には「旅立稲荷」)と呼ばれ、江戸時代には江戸方面に旅立つ人々が道中の安全を祈願するために必ず立ち寄った神社であった。東北本線の下り列車が広瀬川橋梁を渡る寸前に、左側車窓から堤防脇を眺めると赤い鳥居と小さな小さな神社が一瞬チラリと見える。これが旅立ち神社である。「長町」は江戸時代の仙台に最接近した宿場町。仙台城下に到着し、明日は仙台の城下町に入る旅人が、ゆっくりと旅の疲れを癒す「長々と軒を連ねた」宿場町が長町であったのだ。

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2023年7月23日 (日)

宮城立教会総会

7月6日   JALシティ仙台にて、総会が開催されました。

 

事務局の数字のミスなどが発覚して、

ご質問等もありましたが、

なんとか、皆様にご了承していただき、

ちゃんちゃんと総会は終了できました。

 

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総会の後は、懇親会です。

コロナ禍が明けたおかげか、初参加の方も、

久々の方もいて、賑やかな会になりました。 

 

 

久々のJALシティ仙台。

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宮城立教会に相応しい!?おしゃれ系な食事でした。

 

 

 

長年、校友会活動に貢献して下さった二名へ、

立教大学校友会より感謝状が贈られました。

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元幹事長。

 

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元副会長。長年「アイビー随筆」書いていただいております!

 

 

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おそろいの本『ゼロからの「資本論」』 を持って、記念撮影。

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実はこちらの方の甥っ子さんが、著者の斎藤幸平氏であるとの事で

わざわざこちらの本を持ってきて下さいました。

結構、メディアにも出ていて、知る人は知っている哲学者さんです。

 

本をゲットできたのは、なぜかじゃんけんで勝ち抜いた女子ばかりでした。

 

 

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初参加女子。貴重な存在です!!

 

 

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