2024年4月 1日 (月)

2024年4月アイビー随筆

アイビー随筆4月号

 アイビー随筆「聞かれなくなった宮城・仙台弁」

              37年理学部卒

                  大内 建二

 かつて木曜アイビー会の常連であった永井先輩や元立教会会長であった菊地信夫氏は、常に見事な仙台弁の会話をしておられた。近年では仙台でも生粋の宮城弁・仙台弁を聞くことが「稀」になっている感じがする。

 高齢者同士の会話の中でも方言が聞かれなくなっているが、これも全国的な傾向のようだ。テレビが身近な存在になって以来、人々の会話は訓練された標準語で話すアナウンサーのしゃべりに何時しか訓練され、会話言葉は所謂標準語に置き換えられてきたらしいのだ。

 そのような状況から、今では仙台生まれの若者や子供たちは、生粋の宮城或いは仙台特有の方言を知らない者が多くなっているようだし、話し言葉にも宮城特有アクセントや訛りも聞かれなくなりつつある。

 先日近くのスーパーのレジで会計を待っていたら、前にいた高齢者がレジ打ちの若い女性に向かって「袋さテンデンコに入れていがす」と言った。若い女性は「エッ!」と言って戸惑っていたが、客は「バラバラに入れていいよ」と言い直した。久しぶりに「テンデンコ」や「いがす」の言葉を聞いた。これらの言葉は最早使われなくなっているのか?

 私の両親は父親が気仙沼出身で母親が仙台出身である。幼い頃から宮城の方言には「慣れ親しんできた?」が、同じ宮城県でも内陸の仙台と海沿いの気仙沼ではかなり言葉に違いがあることを知っていた。例えば気仙沼方面では若い男衆の事を「あんこ」と言うが、内陸では通じない。

 宮城県内でも県北と県央と県南でも言葉に違いがある。特徴的なのは会話言葉の語尾だ。「何々でしょ」という表現は、県北では「何々だスぺ」と言い、仙台などの県央では「何々ダッチャ」と表現、県南では「何々だヨワ」と変化する。

 代表的な宮城弁(仙台弁)について思いつく言葉を列記してみるが、普段の会話でこれらの言葉を使う人は格段に少なくなっているようだ。

  アッぺトッぺ    ちぐはぐ
  いがす       いいですよ
  いだますい     もったいない
  おしょすい     恥ずかしい
  おどけでねえ    大変だ
  けさいん      下さい
  ごしゃぐ      怒る
  おだず       ふざける
  かばねやみ    なまけ者
  ねっぱす      貼り付ける
  むつける      へそを曲げる
  もぞこい      可愛そう
  たごまる      固まる
  てんでんこ     バラバラ
  あべ        行くよ
  たるひ       ツララ

 今は農村地帯に行ってもビッキ(カエル)もカンナギッチョ(トカゲ)を見かける機会が少なくなっている。農薬散布が行き渡った結果でもあるが、子供達はこの言葉を使っているのだろうか。それよりも知っているのであろうか。

 かつて宮城県の高齢の女性は「さよなら」と言う代わりに「おみょうにち(お明日)」と言っていた。思いのこもったなかなか良い言葉であると思うのだ。またご婦人同士の最上級の感謝の言葉は「ありがとうござりすてござりす」と言われたが、今では「超高齢者」同士の会話以外では聞くことは不可能のようだ。

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2024年3月 3日 (日)

2024年3月アイビー随筆

アイビー随筆3月号 「渋谷駅前交差点」

           37年理学部卒 大内 建二

 ほぼ毎日と言ってもよいほど東京「渋谷」駅前の交差点の姿がテレビ画面を賑わしている。賑わす理由はこの交差点の姿が、世界に類を見ないほど複雑でかつ混雑しているからである。また一方では忠犬「ハチ公」の名前が世界に知れ渡ったためでもあり、世界各国の観光客が、一度この目で「渋谷交差点とハチ公の銅像」を見、そして体験しようと押しかけて来るのだ。

 世田谷に住んでいた私は小学生の頃からよく渋谷を訪れており、また学生時代も含め渋谷駅には随分とお世話になっていたが、渋谷がまさかこのように様変わりするとは思いもよらなかった。

 確かに現在の渋谷駅前の交差点は複雑で、正確には「変則7差路」交差点なのだ。この変則交差点の自動車交通整理は複雑となり、それに伴い横断歩道の交通整理も複雑にならざるを得ないのである。そこで考案されたのが、人の横断には現在のような「自由自在方向」の一斉の横断を行うことであった。この方式を使えば人の横断は一度で済み、車も信号に従い自由走行が可能になるのである。

 インタビューされる外国人観光客のほとんどが「こんなに混み合うのに何故人々はぶつからないでスイスイと横断出来るのか?」と言うが、日本人からすれば「全く理解不能」な質問なのである。つまり「ぶつからないのが当たり前」というのが日本人の礼儀作法と習慣なのだから。

昭和30年代の頃までの渋谷駅前と現在とは全く違う姿となっている。昭和30年頃まで東京都内は都電(所謂チンチン電車)が街中を縦横に走っていたが、昭和39年の東京オリンピック開催を境に街の姿は激変したのだ。都電は完全に撤去され、渋谷駅前からも都電の駅や電車や線路の姿は消えた。

 かつて都電の渋谷駅は現在の「ハチ公」銅像付近にあった。ハチ公の銅像も初代の銅像が置かれていた場所から3回も変わっている。

初代「ハチ公銅像」は山手線改札口の出口付近に置かれていた。実物の「ハチ公」が主人の上野・東大教授を毎日待っていた位置である。

私の母親は昭和初期の新婚当時、渋谷駅付近に住んでおり、渋谷駅改札口でご主人を待つ「本物のハチ公」をよく見かけたそうである。

尚「ハチ公」の本物の姿(はく製)は上野自然科学博物館に展示されているのでご覧あれ。

 「ハチ公」の初代の銅像はまさしく「青銅製」で、二代目からコンクリート製に変わっている。初代の銅像は戦時中の金属類回収の対象となったのだ。

数年前までハチ公の銅像の後ろには、緑色の流線型の電車が置かれていたのを皆さんテレビ画面でご覧になっていたであろう。この電車、戦後の東急電鉄のエースとして昭和29年に登場した5000型という、当時としては正に画期的な構造と設計の電車であったのだ。合計150両も造られ、特に東横線の主力電車として活躍したが、現存するのはハチ公の傍に展示されていたこの車両だけ(この車両は本来の車両の後部半分を切断したもので、現在は秋田犬の故郷秋田県大館市に造られた「秋田犬」公園に移設されている)。

 渋谷交差点を写すテレビの画面には、交差点正面奥に横長の「大盛堂書店」という看板が見られるが、この書店は終戦直後からここで店を開いている東京でも超有名な書店である。既に75年以上の歴史を持つが、私はこの書店には学生時代に随分とお世話になっている。私が現在の「猛烈な」鉄道ファンになったきっかけは、この書店で購入した一冊の鉄道雑誌のおかげ?でもあるのだ。

 私は現在の渋谷駅には何か寂しさを感じるのである。かつて東急東横線の渋谷駅は山手線の駅に並行して配置されており、一日十万人以上の乗客が東横線渋谷駅を利用していた。しかし現在は隣の代官山駅からすぐ地下に潜り東横線渋谷駅は地下に消えてしまっているのだ。

 渋谷は今後も変わり続けるのであろう。

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2024年2月 3日 (土)

2024年2月アイビー随筆

アイビー随筆2月号

 アイビー随筆「厳しかった授業の記憶」  

               理学部 37年卒

                  大内建二

 受験シーズン到来。今回は時節柄忘れ去ろうとしている真面目な勉強について、記憶を辿りながら少し書いてみることにした。

 私が通った立教大学理学部については生徒数の絶対数が極端に少ないだけに、その授業内容についての実態はほとんど知られていない。そこで今回は理学部物理学科の学業内容について記憶を辿り紹介してみたいと思う。

 私が立教大学理学部物理学科に入学したのは昭和33年4月であった。4月の授業開始時の生徒数は68名。物理学科の応募定員は40名であるはずなのに、実際の学生数が応募定員以上であることに驚いたが、それには次のような理由があったからだ。一つは立教高校や立教女学院からの推薦入学者数は公募定員に含まれていない事。また合格点数の足きりの関係(定められた合格基準点数以上を獲得した受験者が多い場合)から、若干多めの人員にならざるを得ないことが理由であったのだ。ちなみに私たちが入学した時の立教高校と立教女学院からの推薦入学者数は合計12名であった。

ところが4年後の卒業時の物理学科の学生数は52名に減っていた。4年間で約四分の一の16名が脱落していたのだ。授業がそれだけ厳しかったのだ。

 1・2年生の教養課程では高校で受けた数学や物理、化学の授業内容より少し高度な内容の授業を受け、英語の他にドイツ語が必修となっていた。また経済学の基礎の授業や保健体育の重要性の基本も学ばされた。変わったものとしては1年生の時に「キリスト教倫理」の授業があったが、この授業が立教大学に入学して経験した唯一のミッョンスクールを認識させた授業であった。英語の授業はアメリカ人宣教師が行い、授業は教科書を基本に「対生徒」との対面英会話様式で行われ、英会話の実践教育を受けた。

 3・4年生の専門課程の授業内容は完全な専門物理学の授業内容となった。原子核工学、原子核物理、原子核理論、量子力学、論文輪講、電子工学、光学、物理数学(授業内容が悲鳴を上げるほど最も難しかった!!)等々。

 立教大学の物理学科の教授には、終戦直後に解体された国家機関としての理化学研究所の原子力関係の研究員が多く含まれており、何名もの世界的にも著名な教授が含まれていた。それだけに他大学と授業内容を比較すると原子力・放射線関係の授業に力が入れられていたのだ。

 4年生では卒業論文ではなく卒業研究(実験)が最大の課題となり、特に夏休みには連日理学部の4号館の2階の実験室に篭り、課題の実験に取り組むことになった。3~4名で一チームを作り、担当教授から与えられた研究テーマについての実験・解析にあくせくしていた。私は3名のチームの一員として、担当教授から提示された課題「新型プラスチックシンチレーターによる残留放射能測定効果」という課題に専念した。

 実験内容は大気中の残留放射線量の測定で、当時は広島の原爆投下から16年が経過していたが、全国的な残留放射線量の実態については全くの未知数で、その解明の一役を担うことになっていたのだ。

 4年生の時の論文輪講は厳しかった。各教授から各生徒に数ページの別々の原子力・放射線関係の英文論文が渡され、一か月の余裕の中でこれを翻訳・解読理解し、クラスメート出席の中、お歴々の5~6名の著名教授の前でこれを解説するのである。私の発表の時にはIAEA日本代表の著名な田島栄三教授が出席されており、緊張し何を説明したのか全く記憶がない(内容はアメリカのネバダ州で行われた初めての原子爆弾実験の状況の論文であった)。

 このような授業を受けたためか、私は翌年にはセメント製造会社に入社し、研究所で放射線(γ線)を応用したセメント製造工程中での特殊な物質測定装置の開発研究を担当、社会人としてのスタートを切ることになった。

 物理学科卒業の我々同期生は隔年毎に同期会を開催していたが、それも最年少者が80歳(クラスでは1~3年の浪人経験者が多数を占めていた。そのために最後の同期会は正にご老体の集まりであった)を迎えたことを最後に解散した。それでも最後の会では半数の26名がキャンパス内の松本楼に参集した。同期の出世頭は国立・宇都宮大学の学長になった田原君と、慶応大学理工学部の名誉教授になった親友の池崎君である。

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2024年1月 4日 (木)

2024年1月アイビー随筆

アイビー随筆1月号

 アイビー随筆 「乗り鉄の話」

                   37年 理学部卒

                       大内 建二

 今回のお題は凡そお正月らしくないお題であるが、新年の余興としてお読み頂ければ幸いです。私の立教生時代は学業とサークル活動以外には、趣味の「乗り鉄」を楽しんだ。「乗り鉄」とは列車に乗ることを楽しむ鉄道好きの事である。私の場合は当時の国鉄の主力列車であった「長距離鈍行各駅停車」に乗り、ただただ移り行く窓外の風物・景色を楽しみ、日本を知ろう?という単純なものであった。かかる費用は当時の驚愕の遠距離低減率による格安の学割運賃と、格安の駅前旅館代と昼飯代のみ。費用は超多忙な父親の仕事の手伝い(本業の傍らで頼まれて書く、頼まれ物の殴り書きの乱筆原稿の出版社向けの浄書)のアルバイト?で稼いだ。

 鈍行列車の「魅力」は、景色がゆっくりと眺められること。名も知らぬ駅で途中下車して周囲を見物し、そして時にはその地の駅前旅館などに泊まること、更に車内で同席する地元言葉の乗客の世間話を聞く事である。

 当時は秘境駅またはそれに近い駅が東北には無数にあった。その中でも忘れられない駅には、五能線の深浦駅、千畳敷駅、羽越本線の桑川駅、奥羽本線の及位駅(国鉄難読駅の筆頭、「ノゾキ」と読む)、院内駅、仙山線の奥新川駅、磐越西線の磐梯山麓の翁島駅など無数にあった。

「及位」駅は山形県と秋田県の山形県側の県境にある無人駅。ほとんど乗降客が無い山中の駅。ある秋の夜、無人の駅舎のベンチに黒いマントを着た老人らしき人が蹲っていたのを、たまたま列車に乗る地元の人が見かけ、「お晩です」と声を掛けたら、その老人らしき「人」は慌ただしく外に出て行ったとのこと。熊だったのだ。地元の人に聞いた嘘のような本当の話。

 先出の「桑川」駅は羽越本線の新潟県北端の日本海の海岸沿いにある駅。周辺の海岸は通称「笹川流れ」と称する風光明媚な場所であるが、「桑川駅」は小さな小さな集落にある小さな駅。日も暮れたので途中下車し、駅前にあるただ一軒の小さな旅館に宿を求めた。「どうぞ」と言われて飾り気のない座敷に入ったが、案内してくれた親父さん、「これからお客さんの夜食のオカズを釣りに行きます」と言い、海岸に引き上げられていた小舟を漕いで沖に向かった。夜食のオカズには正に釣り上げたばかりの大きめの魚の煮付けが出てきた。何とものんびりした宿であった(昭和33年8月の事。宿泊代470円)。

 お正月も近い12月も暮れの事、父親の故郷である気仙沼に小旅行のつもりで鈍行乗り継ぎで赴いた。珍客到来と親戚一同の大歓迎を受けたが、帰りに「これ持ってけ」と言って土産に渡されたのは、何と見事な雄の雉一羽。叔父が裏山で仕留めた雉である。両足を紐でくくったただけの全長七十センチもある見事な雉をぶら下げ、東京までの大船渡線、東北本線合計十数時間の鈍行列車の旅。車内の客は驚きじろじろ見る。東京に着いてからは国電や東急線の車内でも場違いの物をぶら下げる私に、乗客の仰天する視線が注がれるのだ。

この雉、直後の正月の雑煮の肉になったが、羽毟りは私が行い、解体は母親がやった(母親がこんなことまで出来るのか!と驚いた)。野趣味のある独特の肉の味。翌年は雉にそっくりの一羽のヤマドリが送られてきたが、雉もヤマドリも同じ仲間。肉の味は同じで美味しかった。

 私の鈍行列車の最長乗車時間は上野・滝沢(盛岡の三つ先の駅)間で、十四時間三十分。尻が痛くなった。長距離鈍行の乗車記録にはまだ上がある。

私が所属していた「地理学研究会」というサークルに新加入した下級生の出身は九州は宮崎県の都城。交通費節約のために頻繁には帰省せず、帰省は暮の年に一回。急行料金を節約するために東京から都城までの約千四百七十キロメートルを毎回鈍行の乗り継ぎで帰省していた。

東京駅出発は14時25分の門司行き鈍行列車(当時の日本最長距離の鈍行列車)に乗車。翌日の夜に門司に到着。すぐに日豊本線経由の西鹿児島行き鈍行列車に乗り継ぐ。都城到着は翌日の午前九時。乗車時間実に四十時間以上。二泊三日の硬い椅子に座ったままの汽車旅である。彼の苗字は「伊地知」。鹿児島県や宮崎県では名家の御曹司である。今でも寡黙な九州男児の彼との文通は続いている。

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2023年12月27日 (水)

クリスマス家族会&楽天田中選手・荘司選手激励会

12月3日に江陽グランドホテルにてクリスマス家族会が開催されました。

全く制限のない、久々のクリスマス家族会です。

 

昨年のドラフトの1位指名にて東北楽天ゴールデンイーグルスに入団した荘司選手ですが、

昨年の今頃はまだまだ、コロナ禍で激励会を開催できませんでした。

今年、晴れて、クリスマス会に合わせて、激励会も同時開催しました。

 

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久々にプロ、仙台放送の下山アナの司会です。

 

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田中選手・荘司選手のトークショーも開催。

スポーツ担当の下山アナと元楽天の戸村さんの二人で

盛り上げていただきました!

 

 

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選手提供のグッズは入札式抽選会です。

田中選手のサイン入りバットはさすがに人気No1でした!

 

 

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クリスマス家族会だからと子供用にたくさんの鬼滅グッズを提供していただきました。

 

 

 

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百合マークのスパークリング。ホテルがわざわざ、選んでくれたのかな?!

 

 

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最後に全員で記念撮影です。

 

 

 

会終了後。

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デザートビュッフェを頬張る選手達。

意外にもスイーツ男子かな!?

 

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2023年12月 4日 (月)

2023年12月アイビー随筆

アイビー随筆 12月号 

 アイビー随筆「クリスマスディナー」 

               37年理学部卒 

                  大内 建二 

 立教生時代の私はかなり真面目(?)であったように記憶する。12月24日「クリスマスイブ」の日は、午後4時からタッカーホールで開催される「クリスマス大晩祈」(クリスマスミサ)に出席し、心の邪気?を払い家路についた。12月の午後5時は既に暗い。本館前の二本の巨木のヒマラヤスギはクリスマスイルミネーションで飾られ、荘厳な雰囲気を醸し出す(この姿は現在はクリスマス時の池袋の恒例名所になっていると聞いている)。 

 一時間後に自宅にたどり着くが、この日は超多忙の父親も夕食の席に着く。クリスチャンの父親が短く主の祈りを唱え、家族で讃美歌を一曲歌った後に、家族そろって母の手作りの「クリスマス料理?」を家族で楽しく分け合い食べる。しかしどのような料理であったかは全く記憶がない。 

 現在の我が家のクリスマス晩餐?はどうか? 洗礼も受けていない小生が「主の祈り」を唱え讃美歌を歌うこともなく、家族3人の細やかなクリスマスディナータイムである。我が家では伝統的にクリスマスケーキは「自作」である。自作とは言っても既成の大型のスポンジケーキを買い込み、大量の生クリームを作り、スポンジケーキの上と輪切りにされた中間に苦心して「塗りたくる」。そして輪切りの中間のクリームの上には薄切りのイチゴを並べる。 毎度の娘との共同作業であるが結構難しい。 

 既成の各種飾り物で周囲を飾り、市販のケーキにも負けないくらいの如何にも「立派」?なクリスマス・デコレーションケーキに仕上げるのだ(但しボリュームがあるので数日かけて完食する)。 

 メインディッシュは既成のローストされた「鶏もも肉」である。特性のポテトサラダとコーンスープでディナーは準備完了である。「天にまします我らが父よーーー」の主の祈りもなく食事開始。 

 クリスマスディナーには思い出がある。中学生の頃、私の実家(世田谷区等々力)の道路を挟んだ向かい側の家に、米空軍立川基地に勤務する軍属夫婦(ご主人はアメリカ人で奥さんは日本人)が間借りして住んでいた。ある日曜日、父親が家の前で偶然にその米人旦那と対面。英語が喋れる父親はしばらくその米国人と立ち話をしたのだ。それがきっかけで父親は以後休日などに時々彼と立ち話をするようになった。 

 その年のクリスマス前に、彼は米国の実家の話を始め、涙ながらに楽しい家族クリスマスの思い出を話し出したそうである。父親はそれを聞き、その年のクリスマスに彼ら夫婦を我が家に招待し、ささやかながらクリスマス食事会を開くことになったのだ。  

 当日の夜、彼ら夫婦を我が家に招待し、我が家の家族と共に8畳の客間で細やかながら俄かの「日米家族クリスマス食事会」を開いた。私は中学3年生であった(昭和28年)。 

 彼はこの日の和気あいあいの出来事がよほど楽しかったらしく、彼の奥さんの話によると、何時もこの時の楽しかったことを話していたそうである。しかし彼は翌年に任期が来て夫婦はアメリカに帰国したのだ。その後もしばらくの間双方でのクリスマスカードの交換が続いたが、10年後に当人が故人となった知らせが奥さんから届いた。 

 この日のディナーの内容は全く覚えていないが、ディナーの一つに母の手作りの大きな特製の「ナスの肉詰め」があったことは覚えている。彼はよほどこれが気に入ったらしく、日本人の奥さんの話によると、常日頃「アレを作ってくれ」と彼女にねだったそうで、ある時奥さんが母親に「ナスの肉詰」の作り方を教わりに来たことがあった。 

 私の奥さんも「ナスの肉詰め」は得意であるが、これを手伝わされるのは私で聊かめんどくさい。肉の詰め方や美味しくするために、私の母親譲りのコツがあるのだ。作りながら60年以上も前の出来事を思い出す。 

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2023年11月30日 (木)

2023年11月アイビー会(ボジョレーヌーボーを嗜む会)

11月16日ボジョレーヌーボー解禁日にアイビー会が開催されました。

年に一度のワインを嗜む会です。

普段は焼酎の蕎麦湯割を飲む皆様もこの日ばかりはワインで乾杯です。

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2023年11月 5日 (日)

2023年11月アイビー随筆

アイビー随筆11月号 

 アイビー随筆「野蒜築港跡」 

37年 理学部卒  

                 大内 建二 

 聞き慣れない地名と思いますが「ノビルチクコウアト」と読みます。場所は東松島市の鳴瀬川河口左岸に広がる三角州の荒れ地で、ここは近代日本産業の発展の一幕を垣間見る、知られざる近代日本の歴史的遺産でもあるのだ。 

しかし宮城県人でもこの地名と場所を知っている人は限られるであろう。ましてや現地を訪れた事のある人はさらに限られるであろう。ここはまさに明治初年に展開された日本の国家的大規模土木工事の忘れられた遺産の地なのだ。 

 明治の初め、コメの一大産地である旧伊達藩の米や建材類を東京まで輸送するルートの開発が始まり、鉄道の開通以前に船運による輸送が大々的に計画された。その計画とは、北上川とその支流である迫川や鳴瀬川、更に江合川を使い宮城県の穀倉地帯の米や材木を石巻まで運び、そこから船運で東京まで輸送するという日本の食料と資材輸送の大動脈を構築しようとする構想であった。 

 しかし北上川河口の石巻は、拠点港にするには地形的に不利で、その打開策として北上川の下流域右岸から西方の鳴瀬川河口の野蒜に向けて運河を開削し、鳴瀬川河口の野蒜三角州に新たに港(野蒜港)を建設してここと連結、膨大な量の米や木材、石材を東京に向けて送り出そうとしたのだ。新たに開削される運河は「北上運河」(現存)と呼ばれることになった。 

 また成瀬川河口右岸からは松島湾に向けて新たに「東名(トウナ)運河」(現存)という新しい運河も開削し、石巻から塩釜まで米や木材を船運で結ぶ新たな輸送ルートも計画され工事が開始されたのだ。 

 しかし北上運河と東名運河が完成した直後の明治17年に、東北地方は未曽有の台風に襲われ、激浪で鳴瀬川河口に建設中の野蒜港の堤防や施設の大半が大規模に破壊したのだ。破壊個所の修復は極めて大規模に及ぶことになり、当時の日本政府には修理予算の余力もなく、またその後の東北本線の塩釜までの開通もあり、北上運河と東名運河の利用により石巻から塩釜までの物資輸送が容易となり、わざわざ野蒜築港を建設する必要性も無くなり、野蒜築港の建設計画は放棄されることになった。 

 現在成瀬川の河口の左岸に、野蒜港を建設・拡張しようとした広大な三角州の平坦な跡地が現存している。一部にレンガ造りの構造物跡も見られるので、ドライブがてら一度見学されては如何であろう。鳴瀬川河口の右岸の堤防上には「野蒜築港記念館」という小さな博物館があるが、東日本大震災の大津波で消滅した可能性があり、その後訪れることもなかったので確認していない。ここでは野蒜築港建設に関わる極めて貴重な多数の資料を見ることが出来た。 

 余談であるが、この地は航空自衛隊の松島基地の3000メートル滑走路の西端の延長線上に位置している。本基地は航空自衛隊の曲技飛行チーム「ブルーインパルス」の拠点基地で、時には超低空で離着陸する同チームの機体を堪能することも出来る。正に航空ファンのカメラショットの隠れた垂涎の地でもあるのだ。チャンスに恵まれれば、上空で展開される曲技飛行の訓練を見ることも出来る。 

 尚完成した北上運河と東名運河は、松島湾を隔て貞山堀に繫がり、北上川河口から阿武隈川河口までを連絡する、全長42キロメートルに達する日本最長の「知られざる内陸運河」として存在している。 

 尚この三つの運河は東日本大震災の際に全区間が水没し、悲惨な状況になった。しかし幸いにも運河自体には大きな破損は無かった。私は被災直後に船舶関係書籍の某出版社の依頼を受け、一日がかりで運河全区間の被災状況の写真撮影を行ったが、運河に流れ込んだ数々の「残骸」を目撃し仰天した。 

仙石線の被災の跡も生々しい野蒜駅付近では、本来の位置から200mも流された近隣の大きな寺「長音寺」の本堂が、運河の中に浮かんでいたのである。更に私が大好きだった静かなたたずまいの太白区荒浜の集落は跡形もなく、付近の農家の庭先には何と百トンほどの大きさの漁船が横倒しになっているではないか。 

この時の運河全区間の一連の惨状を写した写真は、船舶専門月間誌「世界の艦船」の平成23年8月号で紹介されている。ご興味ある方はご覧ください。 

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2023年11月 3日 (金)

宮城立教会 2023年秋 ゴルフコンペ

10月29日宮城立教会ゴルフコンペが

富谷カントリークラブで開催されました。

雲に覆われた天気ではありましたが、

なんとか、最後まで降られずに、

無事、最後まで回ることができました。

 

今回は初参加の方が3名もいて、賑やかなコンペになりました。

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最前列に1位から3位の方が並んで記念撮影!

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2023年10月 3日 (火)

2023年10月アイビー随筆

アイビー随筆10月号 

 アイビー随筆「変わった野球」

37年 理学部卒  

                 大内 建二 

 野球のシーズンもそろそろ終わりであるが、近年、公園などの広場で野球を楽しんでいる子供たちを見かけることが極めて少なくなったのが気になる。私の住む長町のマンションの目の前には、八本松公園という野球やサッカーが十分に出来るグラウンドを持つ公園があるが、休みの日でも子供たちがキャッチボールやノックをして楽しんでいる姿を見かけることはほとんどない。広場を使って楽しんでいるのはグランドゴルフを楽しむ近所の高齢者である。元気一杯で楽しそうだ。 

 それにしても「少なくない」はずの子供たちは何処へ行ってしまったのだろうか。家に閉じこもってゲームに夢中になっているのだろうか。昔の話を持ち出して申し訳ないが、私たちの少年時代はゲーム遊びなどないために、日暮れまで常に外で遊んでいた。特に野球には夢中であった。 

小学校の4年生の昭和二十三年頃、日本ではプロ野球が復活した。ジャイアンツの川上や青田、阪神の藤村や若林、中日の西沢が大活躍していた。彼らは皆戦場の生き残りであった。当時の日本中の少年たちが彼らに憧れ野球が一気に流行のスポーツの最先端になった。 

 傑作な話だが、昭和25年(千九百五十年)にアメリカのマイナーチームの「サンフランシスコ・シールス」というチームが来日した。オドール監督が指揮。 

 全国で日本プロ野球チームと10試合を展開したが、日本チームが勝利したのは全日本チームとの僅かに一回!一勝九敗の惨敗である。惨憺たる結果であったが、これが当時のアメリカの二軍チームにも敵わない日本プロ野球の実力だったのだ! 

 話を戻そう。野球が出来るほどの広いグランドがない当時の我々日本中の野球好きの少年達は考えた。そこで考え出され、全国的に流行した野球がある。「三角ベース」と「ゴロベース」である。ご存知だろうか? 

 「三角ベース」は両チーム夫々5名いればゲームが出来た。二塁ベースを省いて三角にして野球を楽しむのだ。ホームベースを中心に90度角ではなく60度角にベースを配置する。守備はピッチャーと一塁・二塁。内野のショートとセカンドは無し。外野はセンターは無くレフトとライトだけ。キャッチャーは打撃側がやる。そのためにフォアボールは無いが三振はある。両軍で10人もいればゲームは出来る。子供は遊び作りの天才である。随分楽しみましたね(人数に余裕があればショートを入れる)。 

 「ゴロベース」はもっと簡単。道具はゴムボール(ソフトテニスのボール)だけ。ベース配置も「三角ベース」と同じだが塁間の距離は格段に短い。遊ぶ場所は多くの場合、学校の校庭であった。並んで植わっている桜や松の木が一塁と三塁ベースである。一チーム最低四名もいれば試合ができる。一塁手や三塁手はいなくとも、打ったボールがゴロであれば、捕球したボールを一塁や三塁手に代わる「木」に、走者より早く球をぶつければ走者や打者は「アウト」なのである。 

 ピッチャーが地面に書いたホームベースに向けてゴムボールを転がす。バットは無い。バッター?は腰をかがめ「手の平」を地面すれすれにして水平に振り、ボールを打つのだ。打ったボールは「存外」に遠くまで飛ぶのだ。 

 こういう「野球擬き」遊びにも必ず「達人」が現れるのだ。とくに「ゴロベース」では転がすボールにカーブやシュート擬きの動きをする球を転がすピッチャーも現れた(ボールの握り方にコツがある)。バット代わりの手の平も、親指の第二関節をうまく使って遠くまで球を飛ばす「名人」が誕生する。ただ手の皮をすりむく傷を負う危険性はある。 

 「ゴロベース」は小学校の高学年生の昼休みの定番遊びで、良い場所(木の太さと並びが良い)を確保するために、「如何に早く」給食を済ませ教室を飛び出し、良い場所を確保するかの技も必要だったのだ。不思議だが、それが出来る達人は必ずクラスに一人はいたものだ。我が6年2組にもずば抜けた早食いの天才がおり、常にゴロベースの場所は確保されていた。その達人「コーちゃん」も今は故人である。 

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