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2009年11月17日 (火)

2009年11月アイビー随筆

アイビー随筆  「貞山堀」  

     37年理学部卒 大内 建二

 
 宮城県の史跡「貞山堀」については、ほとんどの宮城県人が誤解しているのではなかろうか。
 一般に「貞山堀」と呼ばれている堀は、阿武隈川の河口の荒浜の対岸から塩釜湾に至る、仙台湾に沿って掘られた全長約30キロメートルの堀(運河)である。
 この堀は藩主伊達政宗の命令で建設され、江戸時代に完成したものと思われているが、これは大間違いなのである。
 江戸時代の初期(寛永~寛文年間)に、政宗は隠居城として若林城(現在の宮城刑務所の地)を造営することになったが、建設用の大量の木材を丸森方面から運び込む必要があり、その運搬用に荒浜の対岸から名取川の河口の閖上まで堀を掘削した。堀の全長は約10キロメートル。この堀は「木曳堀」と呼ばれたが、木材は筏によってこの堀を通り名取川に運び込まれ、名取川を遡上し途中で広瀬川に入り、現在の河原町で新たに新城の堀の取水のために掘られた「六郷堀」を通り、建設現場に運び込まれた。
 政宗の死後約30年して、成瀬川流域の米を仙台城下に運び込むための水路が掘削された。塩釜湾の西奥から七北田川河口の蒲生まで約6キロメートルの「御船堀」である。
 米は蒲生で小型の川船に積み替えられ七北田川を遡上し、途中から新しく掘られた「御船曳堀」を通り、現在の苦竹の藩の米蔵に運び込まれた(現在の陸上自衛隊苦竹駐屯地)のである。
 つまり江戸時代には堀は分断されたままの姿で、貞山堀という名前もなかったのだ。
 閖上から蒲生までの末通区間(14キロメートル)に堀が掘られ、荒浜から塩釜までが全通し現在の貞山堀が完成したのは明治20年のことであった。                                      
  「貞山堀」の名前の由来は、この全通した堀に名前を付けるに際し、この掘削工事の責任担当課長(高橋某)が、政宗の菩提寺である瑞巌寺に収められている政宗の戒名「瑞巌寺殿貞山大居士」から、二文字「貞山」を頂き命名したものなのである。

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