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2010年6月 9日 (水)

2010年6月アイビー随筆

アイビー随筆 「サン・ファン・ヴァウティスタ号」

             37年理学部卒 大内 建二

 慶長18年(1613年)10月28日、徳川家康と秀忠の内諾を得た政宗は、支倉常長一行をスペインへ遣欧使節団としてへ派遣した。乗船した船は伊達藩の「何処か」で建造され
たサン・ファン・ヴァウティスタ号という洋式帆船であった。
 一行が乗船したこの船のレプリカ船が復元されて石巻の近郊に展示されている。
 この船は政宗と親交のあったスペインの宣教師ソテロと、滞在中のスペイン人ヴィスカイノの協力で、日本に滞在中のスペインの船乗りや造船技師、日本の船大工の協力で建造されたとされている(正確な建造場所は今もって不明)。 
 しかしヴァウティスタ号の実際の姿については一切の資料が無いために本当の姿は全く不明なのだ。再現されている同号の姿は当時のヨーロッパで広く使われていた、ガレオン型外航帆船に仕上げられている。しかしこれを否定することも肯定することも出来ない。何しろ一切の資料が残されていないためだ。
 最近同号をつぶさに見学してきたが、当時のガレオン型帆船の精密な図面と比較しても省略ケ所を除けばよく再現されている。
 但しこの船は実際には航海は出来ない。この船はあくまでも「海に浮かぶことが出来る建造物」の扱いである。厳重な日本海事協会の審査をパス出来ないこの船は、船舶の基準を満たしておらず、あくまでも展示のためのレプリカ品なのである。
 それにしてもこの小さな船でスペイン人40名と日本人140名が、よくも三か月もかけて最初の目的地メキシコまで行ったものである。日本人の中には水夫ばかりでなく、幕府や伊達藩の役人とその随行員や商人達60名近くも乗っていたのには驚かされる。
 常長一行が太平洋を渡っている最中に日本国内の対外対策は厳重な鎖国に変わってしまった。そして多くのキリシタンが処刑されるという悲劇が生まれたのだ。
 この事態に対しスペイン国王も、助力を仰いだローマ法王も一行を歓迎するわけはなく、彼らは7年後に失意の中に帰国したのだ。
 そしてこの出来事の一切(船の建造も含め)は幕府の命令で闇に破棄・葬られてしまったのだ。日本が改めてこの壮大な出来事を公に知ったのは、大久保利通等が渡欧した時なのである。

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コメント

今年の春、萩ホール(=旧東北大・川内記念講堂)で、立大名誉教授の皆川達夫氏によって「支倉常長の聴いた音楽」に関する講演会とコンサートがあったようだが、諸事情により、残念ながら聞きに行けなかった。しかし、以前にも仙台市博物館で同様な講演会があり、その講演で聞いた事等を・・・。
常長がスペインに到着した頃、多少の翳りの兆候はあったにせよ、スペインは未だ黄金期で、その時代に、トマス・ルイス・デ・ビクトリアという作曲家がカトリック教会では活躍しており、ビクトリアの曲を常長は聴いたのではないか、と考えられる。イベリア半島独自の歴史・文化・風土によるものか、ビクトリアの曲は「『死』とか『受難』といったモチーフを扱う時、その表現意欲は百パーセント燃焼する」(皆川達夫著ルネサンス・バロック名曲名盤100 80頁 音楽之友社1992)
興味のある方は、是非、ビクトリアの聖週間聖務曲集の応唱集(レスポンソリウム)やレクィエムをお聴き下さい。
支倉常長ら慶長使節団に先立って、九州のキリシタン大名が派遣した天正使節団の少年達は、法王の前で、同じスペインの盲目の作曲家アントニオ・デ・カベソンのオルガン曲を演奏したらしいです(この件に関しては、34年前、立大在学中に皆川教授に質問し回答を得ています)。

投稿: 中年カメラ小僧 | 2010年6月12日 (土) 18時40分

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