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2010年7月 7日 (水)

2010年7月アイビー随筆

アイビー随筆 「続・遣欧使節団」

       37年理学部卒 大内 建二

 6月のこの欄で「サン・ファン・バウティスタ号」について書いたが、多少説明不足の面があったので補足しておきたい。
 支倉常長一行の遣欧使節団については謎が多く、現在でも多くの未解明な部分がある。何故か?
 この使節団について謎が多いのには大きな理由があるのだ。現在日本国内で出版されている支倉常長と使節団に関する書籍の基本資料のほとんど総ては、一行が訪れたメキシコやスペインやイタリアで公開されている資料によるものなのである。そしてこの使節団に関する日本側の資料は伊達家代々の記録を残した「伊達治家記」に記載されているわずかの文章だけなのである。
 支倉常長一行が日本を出発したほとんど直後に、幕府は鎖国令を発し同時に日本国内にいる日本人キリシタンやスペイン人宣教師の大弾圧を開始した。当然のことながらこの情報は直ちにスペイン本国に送られた。
 日本を出発した常長一行は途中メキシコに立ち寄り、スペインに入国したのは日本を出発して2年後であった。彼らは派遣の目的であるスペイン及び周辺諸国との通商の交渉に入ろうとしたが、日本の実情を既に知っているスペイン国王(フェリペ3世)は彼ら一行との会見の一切を拒否した。
 これを打開するために同行の宣教師ソテロの計らいで、ローマ法王に謁見しスペイン国王とのとりなしを求めることにし、一行はローマに入ったが、謁見はかなえられても交渉は不成功に終わった。
 彼らは失意の中で帰国をすることになったが、鎖国の日本に再入国することは困難を極めた。彼らは入国の許可が下りるまでフィリピンに2年も足止めされていた。
 日本を出発して7年後にようやく帰国を許され一行(全員ではない)は日本の土を踏んだが、帰国に際し幕府の命令で一行が記録した一切の記録(航海日誌、行動日誌、その他種々の記録)は破棄された。また大船建造禁止令に伴いサン・ファン・バウティスタ号の建造に関する一切記録、資料(図面を含む)も破棄された。そして支倉常長も帰国2年後に死去している。
 つまり彼ら一行が帰国した元和4年以降明治維新までの250年間、日本からは遣欧使節団に関する一切の記録が抹殺されたのであった。
 日本がこの派遣の事実を知ったのは明治に入ってからであり、一行に関する記録はすべてをスペインやイタリアに頼らざるを得なかったのである。
 つまり何故伊達政宗が使節団を送りだしたのか、その間の幕府との具体的な交渉や約束事の一切の記録も抹殺されており、より多くの謎を深めたことになったのである。

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