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2010年8月26日 (木)

2010年8月アイビー随筆

アイビー随筆 「昭和20年仙台の夏」 
        37年理学部卒 大内 建二

 この夏は終戦の時より65年目、一つの節目の年である。実はアイビー会の話題の中で今まで一度も出なかった話題に昭和20年の仙台の夏の話がある。話題とならないのはアイビー会会員の中にはこの時のことを、経験している人がほとんどいないためであるのかもしれない。あるいはタブーなのか。
 昭和20年3月、父親を除く我々一家は既に危険の迫る東京から、親戚を頼り仙台に疎開してきた。そして翌4月には私は上杉山通国民学校(小学校)に入学した。しかしそれからわずか4カ月後の7月10日に、私は一生忘れられない恐ろしい体験をした。
 7月10日午前零時少し過ぎ、仙台市の夜空に突然の空襲警報のサイレンが響き渡った。
 母親は我々子供たちを急ぎ起こした。周囲の様子がおかしい。上空には既に轟々の敵機が低空で迫る爆音が鳴り響いている。そして早くも上空では「ズズズーー」という不気味な音が鳴り響いている。無数の小型焼夷弾の落下する音である。窓の外は既に火災を映し真っ赤である。
 我々は隣組の人たちと、取るものもとりあえず安全と思われる北の方角を目指し歩き走った。全員は防空頭巾を防火用水の水に浸し頭からかぶった。冷たく恐ろしかったことが思い出される。
 落ち着いた先は仙山線の北仙台駅の東側数百メートルの小高い線路の上であった。そこから眺める仙台市の南と南西、西の方角は真っ赤に燃えあがっている。そしてその上空を探照燈の光に照らされた沢山のB29重爆撃機の編隊が通過して行く。そしてそれらの胴体からは無数の火の尾を引く小型焼夷弾がばら撒かれている。敵機を迎え撃つ一機の日本の戦闘機も、一発の高射砲弾もなかった。この日の仙台は全くの無防備であった。
 夜の白み始めたころ我々はぞろぞろと家の「ある」方向に戻った。「アッタ」。我々が住む同心丁(現在の上杉1丁目付近)付近の住宅街は奇跡的に焼け残っていた。しかし我が家から南に150メートルも離れていない鉄筋コンクリートの簡易保険局(現存)の幾つもの窓からはまだ盛んに火が噴出していた。恐ろしかった。
 この日仙台市を襲った敵機の数は124機、投下された小型焼夷弾は720トン(約9万発)。仙台市の中心部は壊滅し千人を超える犠牲者が出た。一番丁界隈は当然焼け野原である。
 一生忘れられない心に刻まれた恐ろしい思い出である。

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コメント

仙台空襲でも、南町より南の方は空襲には合わなかったようですね。拙宅近辺(荒町から河原町付近)は、米軍の爆撃機や戦闘機の出没はあっても、空襲はありませんでした。
亡母の話では、赤ん坊だった兄(昭和18年生)を背負い、裏庭で農作業していると、焼夷弾による空襲前に、米軍機が空から「油」らしき物を撒き、その液体が芋の葉にパラパラと音をたてて落ちて来る時に恐怖心を感じたそうです。

話は変わりますが、NHKの朝ドラ(ゲゲゲの女房)を見ていて思い出した事を。
昭和30年代後半、漫画雑誌が月刊から週刊にシフトした頃、ある少年週刊漫画雑誌の特集で読んだのですが、広島・長崎に続いて、原爆投下が予定されていた都市に仙台が含まれていたそうです。
その話の真偽は別として、子供心に「ゾッー」とした記憶があります。

投稿: 中年カメラ小僧 | 2010年8月28日 (土) 19時20分

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