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2016年10月

2016年10月 4日 (火)

2016年10月アイビー随筆

10月号 アイビー随筆

    「仙台藩の米」 37年理学部卒 大内建二

 今月は収穫の秋らしく米の話にする。 

 江戸町民の食事を調べてみたら面白いことが分かった。彼らは男女子供を平均すると一日3合の米を食べていたそうだ。随分と食べたもので、一年間にすると一人約一石(二俵半)の米を食べることになる。

江戸町民は朝一日分のご飯を炊き、朝は炊き立てのご飯を食べるが、残りはお櫃に入れ昼飯と晩飯は冷えたご飯を食べているのがごく普通の生活であったそうだ。(代表的な江戸町人の朝飯は、ご飯と汁と漬物。昼は冷えたご飯と汁と野菜の煮物に漬物。但し職人の旦那は味噌を塗った焼き握り飯。夕飯は冷えたご飯と汁と焼魚と漬物。冷えたご飯は多くは茶漬にして食べたそうだ=資料書による)。

 ところでこれらの米、江戸時代を通じ江戸100万人の飯を支えた米の約60パーセントは仙台藩から送り込まれた米であったのだ。仙台藩の石高は公称62万石であるが、その後の新田開発で石高は約110万石であったそうだ。新田開発で増えた石高については幕府は何処の藩も共通で目をつぶっていたのだ。その代りその増加石

高分の幕府直轄工事の使役が、輪番で科せられる暗黙約束があった。

 伊達藩内の米の中の約60万石は石巻に集められ、そこから千石船で江戸に送り込まれていた。江戸市民約100万人の食の半分以上仙台藩の米で賄われていたのである。つまり伊達藩の米が無ければ江戸市民の大半は半ば餓死していたことになる。これが徳川幕府仙台藩を取り潰すことが出来なかった理由の一つでもあったのだ。

 仙台藩と藩内の米商人は年間約60万両(現在の貨幣価値で約500億円)の財を築き、江戸への販売米の収入は仙台藩の年間の藩予算の大きな柱になっていたのだ。宮城米は今も昔も江戸・東京の食生活を支えていた事が分かる。

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