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2019年11月

2019年11月29日 (金)

2019年11月アイビー会

毎年、11月第3木曜日はボジョレーヌーボーの解禁日です。

これに合わせて、毎年、ボジョレーヌーボーを嗜む会を開催していましたが、結局、焼酎のそば湯割を飲む方が多いという事で今回は普通のアイビー会でした。

 

そんなアイビー会で久々にお祝い事です!

先日、披露宴を挙げた、立教カップルが二人で参加してくれました!

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ささやかですが、平成会からお花束贈呈しました!

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2019年11月12日 (火)

2019年11月アイビー随筆 続き

11月のアイビー随筆にコメントをつけて下さった方がいました。
アイビー随筆の筆者の大内さんからさらにそのコメントへの感想が寄せられましたの下記ご覧下さい!

 

~~~コメント~~~

現在の実方中将の墓は、表現は悪いが、人里離れた場所。
オイラの勝手な想像(=妄想)だが、街道の発展史が関係しているのでは?
現在仙台市内で街道と言えば、国道4号線の前身=奥州街道を思い浮かべる方が殆どだろうと思う。
しかし、奥州街道が整備されたのは江戸時代以降。
という事は江戸時代以前には奥州街道らしきものはあったかもしれないが、奥州街道そのものは存在していない。
では、奥州街道以前には何が存在していたのか?高校時代に大学受験で得た、オイラの貧弱な日本史の知識を駆使すると、それは東山道。都から国府のあった場所(現代風に言えば県庁所在地)を、山川を問わず、最短距離で結んだ道。例えば、源義経が平泉に落ち延びる際には、奥州街道は未だ存在せず、東山道を利用したのではないだろうか。
現在の実方中将の墓の所在地は、東山道沿いにあった痕跡ではないかと勝手に想像、否、妄想している。
伊達政宗の仙台開府以前~平安時代末期まで、郷土史関係の本を読んでも、殆ど空白に近い。その空白期間に南北朝時代があり、多賀城、仙台の岩切城、福島県北にある霊山城が歴史書にほんの少し登場するが、その間に南北朝の皇子(義良親王等)・公家(北畠顕家等)・武士達が東山道を使って東奔西走、否、南北朝だけに、北奔南走し、戦さをした様子を想像するのも歴史の醍醐味か。

 

 

小生の11月号アイビー随筆にツイートされた方の感想文。大変に興味深く拝見しました。県道39号がかつての東山道ではなかろうか、と思われる文章でしたが、小生も同感を覚え感想を書かせていただきました。

 寄稿された方のお名前は分かりませんが、全く同意見です。江戸時代以降の奥州街道は全く新しい道と考えるのが正解のようです。県道39号線は福島方面から仙台に向かうごく自然の道筋と考えることが出来ます。過去には39号線に相当する道は現在の熊野神社付近で直進し名取川を舟で渡り、旧笹谷街道に繋がっていたのではないか、とする説があります。うなずけるもので、現在の河原町付近の広瀬川は江戸時代までは大規模な渡し場になっており、また広瀬川下流方面から運ばれた木材が陸揚げされていた場所でもあります(南材木丁、穀町、舟丁などの地名が残る)。

 東山道はここで広瀬川を船で渡り北に向かっていたものと考えることも出来ます。現在の長町は江戸時代にできた宿場町であり、旧国道4号線は江戸時代からの道と考えるのは妥当と考えられます。

 江戸時代頃の現仙台市内の道は大変に興味深いです。

                     大内 建二

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2019年11月 2日 (土)

2019年11月アイビー随筆

「実方中将の墓」  37年理学部卒 大内 建二

 東北本線名取駅の真西2・5キロメートル、県道39号線から少し入った「笠島」道祖神近くの場所に「実方中将の墓」という知られざる「名所?」がある。

 実方中将とは平安時代中期の公家で、一条天皇の側近として仕えた人物であった。彼は多くの歌人を輩出した公家・藤原家の一族で、父親譲りの和歌の達人として知られた人物であった。小倉百人一首の51番「かくとだに、えやはいぶきのさしもぐさ、さしも知らじな燃ゆるおもひを」の作者として知られている。

 彼は今風に言えば誰知らぬ者のないプレーボーイであったそうで、清少納言との浮名でも知られていたとされており、さらに源氏物語の光源氏のモデルであるとも伝えられている。

 彼は正しくは中将藤原朝臣実方と称したが、あまりの我儘さに一条天皇の怒りを買い奥州の国主(多賀城在勤)に左遷されたのである。

 ある日彼は無聊を慰めるために現在の名取方面への散策の途中、現在の笠島道祖神(名取市愛島塩出)付近の道を馬で通過中落馬し命を失ったという。落馬の原因は定かでないが何かに驚いた馬が突然暴れ出し、中将を振り落とし馬に踏みつけられた、或いは馬が彼を蹴飛ばしたとする言い伝えがある。西暦999年のことであった。

 彼はその場に葬られたとされ、その場所が今に残る「実方中将の墓」だそうである。県道39号線から少し山側に入った些か薄気味の悪い森の中に粗末な木製の大きな囲いがあり、その中に大きな石の碑文が立っている。

 かつて松尾芭蕉が奥の細道行脚の途中で、「笠島」付近にあるはずの中将の墓を訪れようとしたが、当日は雨模様。明確な痕跡がなかったのか或いは鬱蒼とした森の中であるために分からなかったのか、芭蕉は「笠島は何処(いずこ)五月のぬかる道」と「実方中将は何処?」と詠んだと思われる俳句を残している。悪路に探索を断念したのであろう。

 熊野神社付近から始まる県道39号線を金蛇水神社方向に向かう途中にある。市内からは遠くはないので一度ドライブがてら訊ねられては。チョット薄気味悪い場所ですが。

 

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