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2019年11月12日 (火)

2019年11月アイビー随筆 続き

11月のアイビー随筆にコメントをつけて下さった方がいました。
アイビー随筆の筆者の大内さんからさらにそのコメントへの感想が寄せられましたの下記ご覧下さい!

 

~~~コメント~~~

現在の実方中将の墓は、表現は悪いが、人里離れた場所。
オイラの勝手な想像(=妄想)だが、街道の発展史が関係しているのでは?
現在仙台市内で街道と言えば、国道4号線の前身=奥州街道を思い浮かべる方が殆どだろうと思う。
しかし、奥州街道が整備されたのは江戸時代以降。
という事は江戸時代以前には奥州街道らしきものはあったかもしれないが、奥州街道そのものは存在していない。
では、奥州街道以前には何が存在していたのか?高校時代に大学受験で得た、オイラの貧弱な日本史の知識を駆使すると、それは東山道。都から国府のあった場所(現代風に言えば県庁所在地)を、山川を問わず、最短距離で結んだ道。例えば、源義経が平泉に落ち延びる際には、奥州街道は未だ存在せず、東山道を利用したのではないだろうか。
現在の実方中将の墓の所在地は、東山道沿いにあった痕跡ではないかと勝手に想像、否、妄想している。
伊達政宗の仙台開府以前~平安時代末期まで、郷土史関係の本を読んでも、殆ど空白に近い。その空白期間に南北朝時代があり、多賀城、仙台の岩切城、福島県北にある霊山城が歴史書にほんの少し登場するが、その間に南北朝の皇子(義良親王等)・公家(北畠顕家等)・武士達が東山道を使って東奔西走、否、南北朝だけに、北奔南走し、戦さをした様子を想像するのも歴史の醍醐味か。

 

 

小生の11月号アイビー随筆にツイートされた方の感想文。大変に興味深く拝見しました。県道39号がかつての東山道ではなかろうか、と思われる文章でしたが、小生も同感を覚え感想を書かせていただきました。

 寄稿された方のお名前は分かりませんが、全く同意見です。江戸時代以降の奥州街道は全く新しい道と考えるのが正解のようです。県道39号線は福島方面から仙台に向かうごく自然の道筋と考えることが出来ます。過去には39号線に相当する道は現在の熊野神社付近で直進し名取川を舟で渡り、旧笹谷街道に繋がっていたのではないか、とする説があります。うなずけるもので、現在の河原町付近の広瀬川は江戸時代までは大規模な渡し場になっており、また広瀬川下流方面から運ばれた木材が陸揚げされていた場所でもあります(南材木丁、穀町、舟丁などの地名が残る)。

 東山道はここで広瀬川を船で渡り北に向かっていたものと考えることも出来ます。現在の長町は江戸時代にできた宿場町であり、旧国道4号線は江戸時代からの道と考えるのは妥当と考えられます。

 江戸時代頃の現仙台市内の道は大変に興味深いです。

                     大内 建二

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コメント

大内先輩 コメントありがとうございます。

さて、手元に「宮城県歴史の散歩」山川出版社1972という文庫本があります。その74~75頁に『東街道』の説明が記載されています。
しかし、東山道についての言及は、残念ながらありません。

ここで、視点を変えて『脇街道』に注目して見ると、新しい視点に巡り合えるような気がします。

現在国道6号線と呼ばれる道路に平行して走る古くからある山沿いの道路を、古老と呼ばれる地元の年配の方々は「東街道」という名称で呼んでいます。
その東街道が何時の時代に何処から何処までを結び着けた街道であるどうかは不明ですが、海寄り街道であった事は間違いないと思います。

その街道を相馬(中村)から仙台まで結ぶ街道と想定すれば、現在の国道6号線の江戸時代以前の姿・形を彷彿とさせるように思います。

ところで、現在の国道6号線の途中に郡山と呼ばれる場所があります。
この郡山地区は歴史遺産というか歴史遺物の宝庫らしく、地面を掘り起こす建築物を建てる際には面倒だと以前聞いた事があります。
何故面倒かと言えば、文化財保護の為、工事を一時ストップしなければならないからです。
現在の郡山地区ではこうした地面下の埋蔵物=歴史遺産等が出るらしく、郡山地区は恐らく奈良・平安時代以降の海街道沿いに出来た規模の小さな集落だったと想像可能な根拠をを与えてくれるように思います。

東山道の話に戻ります。今回の台風19号で宮城県南の角田・丸森地区は大災害に見舞われました。その角田市には、平安時代初期に僧徳一によって開基された高蔵寺があります。高蔵寺阿弥陀堂は1177年奥州藤原氏の秀衡の妻によって建立された。
何故、人里離れた辺鄙な場所に阿弥陀堂を建てたのか?俗世間に染まってはならないという信仰心の為だろうか?
おそらく、建立当時は、阿弥陀堂に詣でる方々の為、東山道から少し入った場所に建立されたのではなかろうかと思う。しかし、その後、栄枯盛衰を繰り返すのは世の習いで、東山道は廃れ、高蔵寺阿弥陀堂は歴史の表舞台からは忘れられた存在になったのでは?

投稿: 通りすがり | 2019年11月13日 (水) 16時06分

 興味深く拝見しました。ところで文面に出てくる「郡山」とは、もしかしたら現在の太白区郡山ではないでしょうか。
 郡山は多賀城に国府が出来る前に国府が置かれていた場所で、長年の間遺跡の発掘が続けられています。郡山国府は広瀬川の氾濫で壊滅的な打撃を受けたらしく、その後現在の多賀城に移転しています。 
 郡山地区の国府の規模は相当に大規模であることが遺跡発掘調査で確認されております。
 私が住んでおります長町サンハイツはまさに国府の建物の中心地に相当する場所で、国府の規模は北は現在の八本松公園付近、南はイトウヨーカ堂南店付近まで、東は旧建設省国道事務所付近、東は長町駅付近までの規模であったそうです。
 実は公にはしておりませんでしたが、当マンション内の中央広場に三階建ての現在の立体駐車場を建設するとき、基礎工事を開始した時、明らかに何らかの「遺跡?」らしきものが現れました。工事が遅れることを心配し、その情報は流さず工事を進めたことがありました(内密ですが!)。

投稿: 大内 建二 | 2019年11月30日 (土) 21時01分

前回のコメント投稿後、手元にある新書(「あなたの知らない宮城県の歴史」山本博文監修洋泉社2013)を再読。口絵に郡山遺跡の石組池跡の写真が掲載されております。また、同書24~25頁に解説がありますが、物足りない感は否めません。暇を見つけて、区立図書館にでも行ってみようか、と思います。ただ、《何処ぞの愚かな》木村某氏なる方が「ブラタモリ仙台」後編で展開したような誤認(二番丁と清水小路のY字路交差点発生の由来)だけは避けたいと思います。序に言うと、戦後の二番丁・青葉通り等の道路拡幅を指揮した市長は岡崎栄松氏であり、その長男は我が立教のOB(岡崎牧場主)です。仙台市長の岡崎栄松氏の業績に関しては戦災復興記念館に行けば分かるかと思います。

投稿: 通りすがり | 2019年12月 4日 (水) 23時12分

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