アイビー随筆

2017年3月 9日 (木)

2017年3月アイビー随筆

アイビー随筆3月号

 アイビー随筆「大沼旅館」

              37年理学部卒  大内 建二

 

 皆さんご存知の東鳴子の大沼旅館。経営者はアイビー会メンバー。ここの主人が立教のOBであることを知ったのはアイビー会の会話の中であった。

 実は今から45年前に私は古い大沼旅館に偶然にも宿泊したことがある。当時私は東京に住んでいたが、所用で家族三名(娘3歳)でこの旅館に宿泊した。

 鳴子温泉はどこも宿泊料金が高いので、少し離れた東鳴子の温泉に泊まろうと、時刻表の裏にある全国の旅館一覧を見て“何となく”「大沼旅館」に決めたのだ。

 電話で予約しようとしたら電話口に出た女性(現在の大女将らしい)が、「ハタゴですかトウジですか?」と聞いてきた。「ハッ?」と言ったら、ハタゴは宿泊の事だそうだ。この旅館、当時は半分は湯治客専用の旅館であったのだ。

 当日陸羽東線の東鳴子駅で下車(現在は「鳴子御殿湯駅」と改称。無人駅)、北に少し歩いたら古めかしい縦長の看板に大きく「大沼旅館」と書いてあった。鄙びた旅館の入口はハタゴ客と湯治客と別れていた。食事に何が出て、どんなお湯であったかは全く覚えていない。

 仙台に戻ってきてから2年後(平成13年)に20数年ぶりに大沼旅館に行った。立派な外観に変貌していた。ジープで送り迎えする数寄屋風の見事な露天風呂に驚いた。

 この旅館には「弁天の湯」という大きな今では珍しい混浴の内湯の大浴場があるが、ここに入ったら大勢の先客がいた。女子高校生の一団である! 大騒ぎをしていたが、私が入っていった途端にみんなお湯に飛び込み、「シーン」となった。「混浴のはずだが何か悪いことをしたかな?」と思いながら温まり出てきてロビーで休んでいたら、彼女らがドヤドヤと出てきて「先生!変なオジサンが入ってきた!!」。冗談ではない。私は変態ではない! と言いたかったが、そばにいた中年の男性が彼女等に「ここは混浴だよ」。

彼女らは今は白石高校と合併した当時の白石女子高のバレー部の生徒たちであった。その男性は顧問の先生で、さすがに一緒には入れなかったのだ。うらやましそうな目で私を睨んだ。

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2017年2月 2日 (木)

2017年2月アイビー随筆

アイビー随筆「車卒業の記」

         37年 理学部卒 大内 建二

 

 昨年の9月30日をもって私は車の運転を卒業した。10月の初めにマイカーの車検が切れるために、思い切って車を廃車にすることに決めたのだ。この車は私が退職後仙台に戻って来た翌年に3年落ちの中古で買ったマツダ・カペラである。17年間乗ったことになる。

 私は35年前に仙台の花壇自動車学校で免許証を取得して以来、一貫してマツダ車(特にカペラ)に乗っていた。理由は単純で同学校の校長が乗っていた自家用車のカペラが恰好良く気に入ったからである。

 運転を卒業するまでに乗った総距離は49万キロになる。地球を12周した勘定である。会社の現役時代時はマイカーや会社の専用車で年間3~4万キロは走っていたが、定年退職後はせいぜい年間5~6千キロである。

 車を卒業した理由は、最近世間で騒がれている高齢者運転の事故多発に対する細やかな協力である。この1月で78歳になったが、確かにこの1~2年の運転で、信号の見落としやウッカリが増えてきたように感じるのだ。自分では大丈夫と思っていても、やはり反射神経や運動神経が加齢とともに衰えているのだ。悔しいがこれは現実なのだ。

 企業では「ヒヤリ・ハット撲滅運動」が奨励されている。「数十回のヒヤリ・ハットは必ず大事故に繋がる」という忠告は、製造業や運輸業に携わる人たちにとっては絶対の忠告。このことは高齢の運転者にとっては、より真剣に受け止めなければならないことなのだ。

 車を卒業した翌日から生活が一変した。毎日歩くこと歩くこと。それまでは一日1500~2500歩程度の万歩計の数字が一気に5000~6000歩に増えたのだ。「健康のためには一日1万歩は歩きましょう」と世間では言われているけれども、それは年齢によりけりである。1万歩は厳しすぎます。1日1万歩歩くと年間で365万歩。私の歩幅では年間2190キロメートル歩くことになる。この距離は仙台から鹿児島県大隅半島のさらに先、種子島まで歩く勘定なのだ。冗談ではない!

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2017年1月12日 (木)

2017年1月アイビー随筆

アイビー随筆「立教大学」
          37年理学部卒 大内 建二
 
 アイビー会の皆さんは立教大学の卒業ですが、卒業して既に長い年月が経過しております。ここでまことに高邁ながら!!今回は新年にあたり、あらためて本校とその関連組織などについて復習してみたいと思います。
 本校は日本聖公会(イギリス国教会の日本名)のC・М・ウイリアムズ主教(イギリス人)が、明治7年(1874年)に当時の東京の外人居留地であった築地に、聖書教育と洋学教育を目的に開校した「立教学校」がその始まりです。
 その後大正7年に現在の池袋の地に本格的な学校として校舎を建築し、その名も立教大学と改名しましたが、本校の本館と第一学食の建物は当時のままで、現在では東京都の保存建築物に指定されていること、あるいはご存知かもしれません。気が付かれた方もあると思いますが、正面の時計台の上の四ケ所の塔屋の中の一ケ所が短くなっていますが、これは関東大震災の時に崩れたもので、そのままの姿で現在に至っているのです。
 立教大学の建学の精神は「神と国のために」ですが、この神とは日本聖公会(イギリス国教会)の主であるセント・ポールに由来するものであります。
 イギリス国教会は16世紀当時のイギリス王ヘンリー8世とエリザベス1世のときに、ローマ皇庁(ローマンカトリックの本山)から分離独立してできた宗派であります。そのために日本聖公会の儀式はカトリック教的な雰囲気を醸し出していますが、賛美歌などはプロテスタント(新教)教会とほとんど同じであります。ちなみにイギリス国教会の頂点は実質的にはイギリスのカンタベリー大主教ですが、実態はその時々のイギリス君主で、現在はエリザベス2世女王が頂点に位置しています。
 立教大学は日本聖公会の組織の中ではその頂点に位置する組織ですが、それに次ぐ組織には東京築地の国際聖路加病院、大阪府和泉市にある桃山学院(大学、高校等)、また東京の著名なお嬢様学校である香蘭女学校などがあります。
 八ヶ岳山麓の清里高原の清泉寮は今では八ヶ岳高原のシンボルとしてあまりにも有名になっていますが、ここも隣接するキープ牧場と共に日本聖公会内の組織であるキープ協会の組織下で運営されている施設です。清泉寮は立教大学が優先的な使用権を持っていること、
あるいはご存知かも。
 ここで面白い知識を一つ。私が立教大学1年生(昭和33年)の頃の清泉寮周辺は、キープ牧場を含め見渡す限りの原野の中にありましたが、当時の周辺の土地価格は一町歩(3000坪)500円(当時の学食のカレーライス10杯分の値段)で売り出されていたそうですが、誰も買い手がなかったとのこと。
 この話、当時見知った仲の清泉寮の管理人“次郎さん”(有名な管理人)から聞きました。

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2016年12月13日 (火)

2016年12月アイビー随筆

アイビー随筆 
 「クリスマスディナー」
           37年理学部卒 大内 建二

 今から20年ほど前の事であるが、クリスマスに変わった料理を食べるのも良いことだと思い立ち、東京・中目黒にあるイギリス家庭料理の店に家内と連れ立って行った。
 東横線の中目黒駅のすぐ近くの商店街の中にある店である。ドアを開けると中年のイギリス人の女性が「イラッシャイマセ」と出迎えた。この店、イギリス人夫婦が開いている店で、シェフは息子だそうだ。客は東京在住のイギリス人が多いそうだである(調べました)。
 店の名前は「1689」。変わった名前である。席に着き婦人に店の名前の由来を聞いたら、「1689は年号で、イギリス人にとってはとても重要な年代」と片言の日本語で説明された。
 帰ってから調べたら、1688年に「イギリス名誉革命」があり翌1689年に「権利宣言」が行われた、とある。高校生の世界史の時間で習ったような記憶がよみがえった。
 イギリスに敬意を表し、クリスマスディナーとしてイギリスの代表的な料理である「フィッシュ&チップス」、「キドニーパイ」そして「ヨークシャプディング」を注文した。
 結論から言うと、とてもクリスマスを祝う料理ではなかった。「フィッシュ&チップス」はポテトフライと白身魚のフライ。何の味付けもしていない、単なる「素揚げ」である。テーブルの上にある調味料を自分で適当に振り掛けて食べるのだ。「キドニーパイ」は羊の腎臓が中身の一種のミートパイ。臭い!不味い!食べられない!なんとも不味い料理!「ヨークシャープディング」は砂糖を入れた小麦粉を練ってオーブンデ焼いたもの。名前とは裏腹な食べ物。これも「不味い」。
 結局何のためのクリスマスディナーだったのか。値段だけはめっぽう高かった!散々であった。この店既に閉店している。日本人には馴染まない!

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2016年11月 8日 (火)

2016年11月アイビー随筆

アイビー随筆11月
 アイビー随筆「脳トレ」
        37年理学部卒 大内 建二

 年齢が進むと脳の機能が衰えて行くのは人間の宿命として諦めなければならないことだが、多少の抵抗を試み脳の機能の衰えに少しの「待った」をかけることは出来るようだ。
 皆さん夫々に「脳トレ」には工夫を凝らされていることと思いますが、私の場合は定年退職後の今に続く執筆活動が「脳トレ」だと思って頑張っている。
 しかしパソコンという文明の利器は脳トレの基本をぶち壊すのだ。ワードを使い原稿を書いていても、キーを打てばいくらでも漢字は出てくる。しかしいざ手書きをしようと思うと肝心な漢字が出てこないのだ!これでは駄目である。文明の利器に毒され脳が見る見る退化して行きそうだ。
 そこで少しでも記憶力を活性化させようと一計を案じました。引き出しから古い中学卒業時の同期の名簿を引っ張り出し、3クラス全員(177名:男95名、女82名)の名前を念仏のように一心に記憶したのだ。出来ましたよ!今では全員の名前が言えますが、2カ月もすると数名の名前が出てこなくなる、そこで再び名簿を引っ張り出す(その最中に「彼、彼女今何している?」。まるでテレビの人気番組のようである)。
 脳の活性化にはもっと効果的な方法がある。車を運転している時に、すれ違う車のナ
ンバープレートを一瞬にして読み取り、「オイチョカブ」(四ケタの数字を足し算し、下一ケタの数字が幾つになるか、の勝負ゲーム)をやるのだ。
 「オッ、カブ(9)だ!」、「アッ、ブタ(0)だ!」。楽しいですよ。でも10台もやれば脳がたちまちくたびれ果て中止!

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2016年10月 4日 (火)

2016年10月アイビー随筆

10月号 アイビー随筆

    「仙台藩の米」 37年理学部卒 大内建二

 今月は収穫の秋らしく米の話にする。 

 江戸町民の食事を調べてみたら面白いことが分かった。彼らは男女子供を平均すると一日3合の米を食べていたそうだ。随分と食べたもので、一年間にすると一人約一石(二俵半)の米を食べることになる。

江戸町民は朝一日分のご飯を炊き、朝は炊き立てのご飯を食べるが、残りはお櫃に入れ昼飯と晩飯は冷えたご飯を食べているのがごく普通の生活であったそうだ。(代表的な江戸町人の朝飯は、ご飯と汁と漬物。昼は冷えたご飯と汁と野菜の煮物に漬物。但し職人の旦那は味噌を塗った焼き握り飯。夕飯は冷えたご飯と汁と焼魚と漬物。冷えたご飯は多くは茶漬にして食べたそうだ=資料書による)。

 ところでこれらの米、江戸時代を通じ江戸100万人の飯を支えた米の約60パーセントは仙台藩から送り込まれた米であったのだ。仙台藩の石高は公称62万石であるが、その後の新田開発で石高は約110万石であったそうだ。新田開発で増えた石高については幕府は何処の藩も共通で目をつぶっていたのだ。その代りその増加石

高分の幕府直轄工事の使役が、輪番で科せられる暗黙約束があった。

 伊達藩内の米の中の約60万石は石巻に集められ、そこから千石船で江戸に送り込まれていた。江戸市民約100万人の食の半分以上仙台藩の米で賄われていたのである。つまり伊達藩の米が無ければ江戸市民の大半は半ば餓死していたことになる。これが徳川幕府仙台藩を取り潰すことが出来なかった理由の一つでもあったのだ。

 仙台藩と藩内の米商人は年間約60万両(現在の貨幣価値で約500億円)の財を築き、江戸への販売米の収入は仙台藩の年間の藩予算の大きな柱になっていたのだ。宮城米は今も昔も江戸・東京の食生活を支えていた事が分かる。

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2016年9月28日 (水)

2016年9月アイビー随筆

 アイビー随筆「文系・理系」 

         37年理学部卒 大内 建二

 東北放送テレビの朝の顔、佐々木淳吾アナはアイビー会のメンバー。

最近忙しさが増し中々会合への出席が滞り勝ちだが、彼は毎月最終日曜日発行の河北仙販発行のタブロイド判「ひまわり通信」に小文を書いている。同僚の守屋アナと交代で書いているが、淳吾君は大変な名文家なのだ。機知に富んだ筆致の彼の文章は毎回面白い。その中でもこの7月号の彼の文「ビブンセキブンいい気分?牙むく数学にマンガ解説書」は、それらの中でも秀逸、ダントツに読者を楽しませ共感を得たことに間違いはない。

 彼は小学校時代から数学は大の苦手、算数から数学に変って行く過程の彼の苦悩ぶりが楽しませる。中学2年生の小テストで奇跡的に満点を取り、喜び勇んで担当の先生に「やったー!」と言ったら、「君、大勢に影響はない!」の一言。100点満点で11点をもらった答案用紙を父親に見せたら、理系の父親は「オレの息子ではない」の一言。落ち込む淳吾君。

 彼が何故法学部を受けたのか、よーくわかりました。翻って私はというと、「何とかの四段活用」や英語の前置詞などは無用と決めつけ、勝手気ままな勉強をした国語や英語。相通じるものを感じ共感を覚えました。

 物理学科3年生の期末テスト。超難解な物理数学の設問には数学得意な「はず」の私も“達磨さん状態”で全く手も足も出なかった。

このまま無条件降伏し、教授の軍門に下り追試を受けるのは断じてイヤだ! 一計を案じとんでもない自作問題を作り、その回答を答案用紙一杯に書いて提出、見事に及第点の60点(可)をもらった。

教授は私の敢闘精神を大いに讃え?お情けで点数をくれたことに間違いはない。冗談も通じない堅物の初老の教授にも仏心があったのだ。

文系、理系など年齢を重ねれば関係が無くなる。第一私は今や暗算すらおぼつかなくなっているのだから。

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2016年8月31日 (水)

2016年8月アイビー随筆

アイビー随筆「突然の英会話」 

          37年理学部卒 大内 建二

 仙台に住んでいるとほとんど感じないが、東京に行くと最近実に多くの外国人に出会う。政府の外国人観光客増加政策が着実に功を奏している様子が実感として感じられる。実は私も来日観光客が増加しているという事をとても身近に感じるのだ。私は上京した時に何故か不思議に、道に迷った外国人から道を尋ねられることが度々あるのだ。しかも最近はその頻度が増している。何故なのかその理由はわからない。恐らく知らず知らずに彼らと目線が合うためなのか、これだけは実に不思議でならない。先日も上京した時に遭遇した。
 東京駅の中央連絡通路を歩いていると夫婦づれと思しき西洋人から、「エックスキューズミー」。「イエス?」。鎌倉に行きたいのだが何処から電車に乗ってよいのか分からなくなった。教えてくれ、とのこと。横須賀線の地下ホームまでの道を説明するのは面倒なので、すぐ傍の階段を上がった9・10番ホームに来る電車に乗り、四つ目の「大船駅」で降り、横須賀線に乗り換え二つ目が「鎌倉駅」だと伝える。心もとないので手帳のメモ欄に同じことを書き手渡す。
 「サンキュー・ユアカインドネス」。「ユア ウエルカム」。一件落着。日本の印象を少しは良くしたかな?
 3・4番線のホームに上がると、またもや三人連れの西欧人の若いキャピキャピの女の子達に問いかけられた。原宿に行きたいのだがどの電車に乗ったら良いか教えてくれ、とのこと。またかよ!中央線経由では説明が面倒なので、4番線の山手線に乗って原宿駅
で降りなさい。30分くらいかかるよ、と言っておく。「サンキュー」じゃなくて「バーイ!」だって。
 その日の帰りの新幹線に乗ったら隣の席に同年齢と思しき西洋人の婦人が座った。座るや否や親しげに話しかけて来た。オーストラリア訛の独特の英語だ! 二度ある事は三度ある。ヤバイことになった!
 私が英語が分かるのか否かも確かめずに何やら話しかけて来た。それによると彼女の孫が仙台白百合学園高校に留学中で、ホームステイ先にこれから訪ねて行くとのこと。今回で二回目だそうだ。ブリスベーン在住の方で、私もブリスベーンに行ったことがあるので、四割くらいの理解での英会話が何と延々一時間半続いた。彼女、話が止まらないのだ! 船乗りだった死んだ旦那のこと、食べ物のこと、家族のこと。ちょっと質問すると20倍以上になって返ってくる!仙台駅には孫娘を加え数人が迎えに来ていた。可愛いいお孫さんだった。

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2016年7月 3日 (日)

2016年7月アイビー随筆

アイビー随筆「月山」 37年理学部卒  大内建二

 登山の季節に入った。山形県の名峰月山は標高1984m、日本百名山に数えられている。この山に登られた方ならご存知であろうが、日本国内数ある山の中でも、この山の山頂には絶対登頂出来ない。何故なら山頂には古来霊験あらたかな月山神社の小さな本殿が鎮座しているからである。登頂者は頂上1メートル下の拝殿で参拝し、下山しなければならない。

 月山は魅力ある山である。決してキツイ登山ではなく、なだらかな山腹を時間をかけて登るが、その途中の万年雪の間の雪解けの地面には、高山植物の代表である「チングルマ」の群落があちこちで見られる。「コバイケイソウ」の群落も見られる。そして山腹に続く姥ガ岳の斜面の岩場の間には、ヨーロッパアルプスの女王である「エーデルワイス」の親戚の「ヒナウスユキソウ」が密かに咲いている。夏の月山は花の山である。

 月山は日本海に直接面した高山であるために冬の積雪量は桁違いに多い。山腹の積雪は例年8~10メートルに達する。このために月山の山スキーは5月の連休頃から始まるが、とっておきの山スキーコースがある事は案外知られていない。麓の志津の集落の広場からスキーヤーをヘリコプターに乗せ山頂付近まで運び、そこからスキーヤーは再び志津の集落までの、長い長い山スキーコースを滑り降りるのである(但し代金6、000円)。

 かつて松尾芭蕉が奥の細道の旅で、夏の雲に覆われた月山を眺め、次の句を読んでいる。

「雲の峰、幾つくずれて月の山」。庄内平野の鶴岡市付近から眺める月山は正にこの句を彷彿させるものがある。

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2016年6月28日 (火)

2016年6月アイビー随筆

アイビー随筆「医者の面白話」  

  37年理学部卒  大内建二

 今月は少し長くなるが過去に実際にあった漫談・マンガのような話を紹介したい。既に50年以上も昔の話で時効である。
 私は過去に大きな腹部の手術を2回受けている。最初は高校2年生の夏休みで、クラスメート数人とテントを担いで尾瀬ヶ原に行った。その途中で腹痛がしたが我慢して帰ってきた。その直後激烈な腹痛に見舞われたが、結果は虫垂炎の「悪化」で発症した穿孔性腹膜炎であった。かなりひどい状態であったが手術の結果何とか一命は取り留めた。
 これを発症した人は術後5~6年は極度の疲労が伴う運動や行動などは厳禁である。丁度術後6年目の大学4年生のまたしても夏休み、所属していたクラブの夏季フィールド調査は、連日の猛暑の知多半島で行われた。帰宅した直後再び猛烈な腹痛に見舞われた。緊急入院した診断の結果は「極めて重症の腸閉塞」。医者の注意勧告の通りの発症であった。
 手術の結果再び何とか、本当に何とか一命を取り止めた。私の二度の手術を担当した外科医は40歳代後半の脂の乗り切った医師。彼は戦時中は陸軍軍医として激戦地の野戦病院で辛酸をなめ尽くした筋金入りの外科医であったのだ。
 本当に奇跡的に一命を取り止め回復期にあった私に対し、そのS医師は「君は完全に“オダブツ”だと思ったよ!」。患者に対し何というデリカシーの無い言い草! 当時はまだ旧軍医が幅を利かせていた時代であった。
 それから2年後、何かの治療で再びその病院に行った時、待合室でお世話になり親しくなった看護婦長と会った。彼女は開口一番小声で「この間面白いことがあったのよ!」。「S先生がね、盲腸の手術をここでしたの」。「S先生はいつも自分が使う手術台に乗せられ寝かされたはいいけれど、執刀することになった大内さんが知っている外科のN先生に向かって、“お前切り方知ってるのか?”、“痛くするな!”、“テメー何やっている!”、“痛てーッ!”、“コノヤロー覚えてろッ!”」、「もう大騒ぎなのよ。手空の看護婦が面白がって手術室に集まって来たけれど、ただもう皆ゲラゲラ笑うばかりだったわ!“仇を取った”だって」。

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