アイビー随筆

2019年4月 2日 (火)

2019年4月アイビー随筆

アイビー随筆4月号

 アイビー随筆「夜汽車」   37年理学部卒

                  大内 建二

 「夜汽車」という言葉は今ではほぼ死語になっている。演歌の歌詞の中では時々聞かれるが、そこに醸し出される背景は哀愁のこもった情景である。「夜汽車の窓のはるか遠くに見える人家の灯火」、などはその代表的な雰囲気であろう。

 夜汽車とは同じ夜行列車でも特急寝台列車などを指すものではない。昭和40年代頃まで普通に見られた夜行の長距離鈍行列車を指すのである。急行券や寝台券を買う余裕のない貧乏学生にとってはかけがえのない「動く安宿」であったのだ。故郷に帰省する、或いは長距離旅行をする場合には学生の格好の移動手段であった。

 記録に残る日本最長距離の「夜汽車」は、昭和30年代前半まで存在した「東京発門司行」の普通列車であった。全行程1100㎞、所要時間31時間41分。午後2時20分に東京駅を出発し門司着が翌日の22時1分である。

 私が大学2年生の時に所属するサークルに宮崎県都城出身の新入部員が入部してきた。小柄だが頑固そうな頑丈な体躯の学生だ。彼は年に冬休みだけ故郷に帰省した。往復の交通費を倹約しさらに長距離の急行料金を倹約するために帰省は年一回とし、わざわざ往復の東京・都城間も普通鈍行列車に1500㎞乗車したのだ。苦難の旅だ。

往復交通費は現在の価格にして鈍行列車に乗っても30、000円はかかった。急行に乗ればさらに片道6,000円もする高い急行券を買わなければならず、彼の年に一回の帰省の往復は、東京から都城までの往復を常に門司駅で日豊本線乗り継ぎの「鈍行列車」を使ったのである。片道全所要時間43時間04分。二昼夜鈍行「夜汽車」の旅である。九州を代表する我慢強い「肥後もっこす」のような頑固人間でなければ、音を上げる技である。

 先日ツラツラと指折り数えたら、私は生涯で35回も「夜汽車」に乗っていた。最長時間は上野から盛岡の二つ先の滝沢駅までの544・3㎞。鉄道ファンであるからこそ出来ることで、所要時間は14時間45分で食べた駅弁は二食。寝不足と尻が痛くなった記憶が蘇ったが、都城男児のまだ三分の一の距離なのだ。

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2019年3月 7日 (木)

2019年3月アイビー随筆

アイビー随筆3月号
 アイビー随筆「珍木」
             37年理学部卒 大内 建二
 日本国内にはほんの僅かしか生育していない誠に珍しい樹木が存在する。その代表的な樹木に「レバノン杉」」がある。中東のレバノン国の国旗のデザインは風変わりである。旗の中央に緑の一本の樹木が描かれているが、これがレバノン杉である。レバノン杉は紀元前2000年以前から優れた船材として、古代フェニキア人の間では貴重な貿易品として周辺諸国に輸出していたのだ。現にエジプトのクフ王の墓からは全長二十メートルを超える、レバノン杉で出来た船の副葬品が出土されているのだ。
 レバノン杉は現在の中東のレバノンを中心に、シリア、トルコなどにも広く繁茂していたヒマラヤスギの仲間であるが、その樹形は独特である。船材として乱伐の結果、西暦千年頃には既に枯渇してしまっていたのだ。
 現在レバノン杉はレバノン国内の「カディーシャの森」という東京ドーム程度の広さの森だけに生育しており、世界遺産として厳重に管理されている。実は日本には現在3本のレバノン杉が「生存」している。既に樹齢150年を越えているはずである。
 明治20年にレバノン国が日本との国交を開始する記念として数本のレバノン杉の若木を日本に送り届けてきたのだ。その中の3本が現存している。東京の新宿御苑に2本、赤坂迎賓館の裏庭に1本。旗のデザインと同じ独特な樹形のレバノン杉、機会があったら一度ご覧あれ。
 仙台野草園にも1本の珍木が植わっている。公園の中央広場の片隅に植わっている「ハンカチの木」だ。4月頃、まるで真っ白なハンカチの中央を摘み垂らしたような姿の花が咲く。正に真っ白なハンカチが垂れ下がっているような花を咲かせる珍木である。この木は日本では他に東京都内に数本、その他には宮崎県の某公園に多少植わっているだけのまさに珍木中の珍木なのである。暖かくなったら一度野草園に行かれては。

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2019年2月 3日 (日)

2019年2月アイビー随筆

アイビー随筆2月号

  アイビー随筆「コロッケ」

             37年理学部卒 大内 建二

 コロッケは日本を代表する「純日本の洋風総菜」である。昭和2年に東京下町の定食店「長楽軒」の亭主が考案し、客に出したのが日本初のコロッケと伝えられている。もともとフランスには肉や魚を固めのホワイトソースでくるんで衣をつけて油で揚げた「クロケット」という料理があるそうだが、亭主は何処からかこの知識を仕入れ、自己流に茹でたジャガイモをつぶし、玉ねぎのみじん切りとひき肉を混ぜ、小判型にまとめて衣を付けて挙げたものを考案し、「コロッケ」と名付け客に出したそうである。ところがこれが大受けし客の評判となり、たちまち東京中に知れ渡り一躍「コロッケブーム」が沸き起こったのだ。現に昭和初期には日本中にこの

ブームをもじって「コロッケの歌」という歌が大流行した。

 私もこの歌を何故か知っている。「女房もらってうれしかったが、出てくるおかずがコロッケ、コロッケ。今日もコロッケ、明日もコロッケ、これじゃ年がら年中コロッケ―。わっははのわっははのこりゃ可笑し」という何ともおどけた歌詞で、その曲も如何にも昭和初期を彷彿させる素朴なメロディー。当時超有名なコメディアンであった「エノケン(榎本健一)」が歌い、一躍有名になったのである。

 私は家では比較的料理をする男性であると思っている。その中の得意なレパートリーの中にコロッケがある。ただジャガイモを潰しひき肉と玉ネギを混ぜれば良いというわけにはゆかない。材料により味が大きく変わるのである。ジャガイモは北海道産の男爵イモに限る。挽肉は合挽が最も美味しくなる。衣は市販品の中でも「やわらかい」ものが最適。但し味の加減は難しい。ジャガイモを潰すときにはバターを加える。男の料理というものは何故かこだわりが多くなり、女性からは敬遠されがちになる。

 コロッケの形は一般的には小判型であるが、私は俵型で成形する。そして多めに作り翌日の昼飯にも食べるのだ。この場合温めなおすのは禁物。冷めたままの翌日のコロッケはカレーと同じく一日置くと何故か一層美味しくなる。

 この純日本風「クロケット」は最近来日する外国人観光客に結構な人気だそうで、特に東京の谷中商店街の小さなコロッケ屋はガイド本にも紹介されているらしく、毎日沢山の外国人観光客が訪れ一個80円のアツアツのコロッケを買い、楽しみながら食べ歩きしているそうである。中にはレシピを持ち帰り帰国してから作っている人もいるそうだ。

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2019年1月 4日 (金)

2019年1月アイビー随筆

アイビー随筆1月号

 アイビー随筆「お正月」

               37年 理学部卒 大内建二

 「あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します」

で始まる年賀状も近年は減少の一途をたどっているとのこと。年賀状を出さない人の大半は若い世代なそうであるが、彼らはわざわざ面倒な賀状を出さなくとも、携帯のメールで「あけおめ」で済ますことが出来るのだ。時代は大きく変わりつつあるのだ。ところが最近では高齢者が年賀状を止める宣言の、「終活年賀状」というものまで現れたそうである。

 近年人々は字を書かなくなった。携帯でもパソコンでも指先を使えば「字を書かなくとも字が書ける」のだ。しかし弊害は大きい。字を書かなくなった代償は「書く字が著しく下手になっている」ことにつながる。

かく言う私も例外ではない。以前であれば一度に何万語もの字を原稿用紙に書かなければならなかったことが、指先チョイチョイで代用できるのである。「それでは駄目じゃん」と言われても仕方がない。

 大体お正月の様相が全くの様変わりである。今は凧揚げや羽根つきなどをやる子供など全く見かけない。お正月料理にしてからがそうだ。デパートやスーパーに頼めば大みそかまでにはおせち料理が届く。主婦にとっては誠にありがたいことだが、その内容は昔懐かしい純日本風の料理が激減しているのだ。主流はハム、ソーセージ、ローストビーフ、鶏のから揚げ

等々,我々の大学生の頃であれば“やせ我慢”して「ケトウ(これは明治時代に生まれた西洋人を指す用語。今では差別用語として使えない)の食い物だ」と蔑んだであろうが、その半面食欲を注がれる食べ物なのである。このケトウの食べ物が主流になった反面、主婦たちは田作りや煮物が出来なくなった。

 仙台の正月料理といえば「ナメタガレイ」が定番であるが、これも主流になったのは昭和50年代に入ってからのようだ。それまではキチジやメヌケの煮物が主流であったはずである。しかし現在ではこの二つは「ナメタ」より遥かに高価な食材になっている。私などはここ何年も食べたことがない。平時でもアジくらいの大きさのキチジが目の玉が飛び出るほど高価になっている。

 仙台の正月料理はクルミ餅や納豆餅そしてずんだ餅で十分ではないか。そういえば杵と臼で餅を搗く光景は余程のイベントでない限り、一般の生活からは消え去っている。餅は全て機械でつかれたものである。食感に何となくザラザラした感じの残る「臼・杵」コンビの餅が食べたい。

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2018年12月10日 (月)

2018年12月アイビー随筆

アイビー随筆 12月号
 アイビー随筆「運転経歴証明書」
           昭和37年理学部卒 大内 建二

 私が自動車運転免許証を取得したのは43歳の時であった。会社の仙台支店に転勤して来た時、自動車の運転が出来ないことが如何に不便であるかをイヤというほど体験し、一念発起し市内の花壇自動車学校に通い運転免許証を取得した。以来34年間でマイカーや転勤先の営業車を運転した総距離は49万7千キロメートルに達した。地球の赤道上を12周し、地球から月までの距離の六割を走ったことになる。
 しかし2年前にマイカーの車検切れを機会に運転を止めた。免許証を更新したばかりであったが、同乗する家内が「最近見落としが多いみたい」という言葉に気が付かされた。確かに信号の見落としや案内板の見落としが増えている感じなのだ。
 製造会社には「ヒヤリハット防止運動」というものがある。これは「ヒヤリ」や「ハッ」とする体験が10回重なると必ず重大事故に繋がる、という事に対する戒め運動なのだ。近年高齢運転者の運転事故が多発している事は皆さんご承知の通り。高齢運転者は頑固さを増すに従い「自分は大丈夫」という信念が逆に強固になってくる。大丈夫と思っていても確実に反応が鈍くなっていることが自覚できないのだ。
 思い切って運転を止めた。自分や家族のための重要な安全対策でもあるのだ。8月初めに南警察署の交通安全協会を訪れ「免許証返納」を申し入れた。2週間後に「運転経歴証明書」が出来ましたとの連絡が入った。受け取りに行くと「ご苦労様でした」と一言言葉をかけられたが、渡された「運転経歴証明書」は免許証そっくりである。しかし自慢であったゴールドのラインが入っていたところが「グレー」の帯に変わっている。「俺はまだグレーの人間ではないぞ」とは言いたかったが、高齢者であることには間違いない。ありがたく頂戴した。身分証明書やタクシー割引証明として今後はこれを役立てよう。

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2018年11月15日 (木)

2018年11月アイビー随筆

アイビー随筆11月号

  アイビー随筆「観月楼」  

            37年理学部卒 大内 建二

 先日の河北新報の県民欄に、昭和26年当時の松島の観月楼の写真が掲載されていた。懐かしくなり今月はこの観月楼について一筆することにした。

 松島海岸通りから瑞巌寺に入る参道入り口の右角に、ひと際目立つ珍しい木造の三階建ての旅館風の建物がある。明治初年に建設された旅館「観月楼」であるが、旅館業は昭和40年代初めには廃業し現在は1階を土産物の店舗として営業している。風格のある建物で現在は宮城県の有形文化財に指定されている。俳聖正岡子規が20代の初め、松尾芭蕉生誕200年を記念して松島に来訪した時、彼はここに宿泊したと記録されている。

 私の中学3年生(昭和28年)の秋の修学旅行は中尊寺・松島・仙台の3泊4日(鈍行列車の車中2泊、旅館1泊)の旅であったが、唯一の宿泊旅館が観月楼であった。3階の目立つ角の客室が我々クラスメート10名にあてがわれた。今から思うと全くの贅沢であったのだ。窓からの松島海岸と島々の眺めは素晴らしかった“ように”記憶している。夕食に何を食べたか、どのようにして生まれて初めての「外泊」を楽しんだか、全く記憶にないが、旅館前の海岸で写されたクラスの集合写真を取り出して見たが、観月楼の姿は映っていない。

 それから27年後に会社の仙台支店勤務となり、幾度となく松島海岸通りを車で通過したが観月楼の姿はそのままであった。しかしこの頃には2階と3階の客室側の廊下にはカーテンが引かれ、旅館の営業はやめているようであった。そして1階は広い土産物売り場に変わっていた。有名な五大堂は旅館の目の前である。

 先年の東日本大震災の時、松島は正に奇跡的に巨大津波による甚大な被害は免れた。勿論受けなかったとはいっても海岸通りの建物1階は全て津波にやられ、瑞巌寺境内も被害を受けた。もちろん観月楼も1階は被害を受けたが、建物の破壊は免れた。松島湾の無数の大小の島々が防波堤となって津波の勢いを削いでくれたのである。

 観月楼の3階の屋根の四方の張り出し構造は独特で象徴的である。城の天守閣を思い起こさせるものがあり、有形文化財の貫録十分といった姿である。

 毎年秋になると何故か中学3年生の時の東北修学旅行が思い出され、真っ先に観月楼を思い起こすのだ。

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2018年10月 7日 (日)

2018年10月アイビー随筆

アイビー随筆10月号

 アイビー随筆「海の怪物」  37年理学部卒 大内 建二

 船と海事に関わる本を書いていると、よく質問されるものに「海の怪物」がある。人が海と関り出してから海と怪物の話のタネは尽きない。中でも最も話題として多いのが「巨大ウミヘビ」の話である。中には巨大ウミヘビが僚船に絡みつき、海中に引きずり込まれた、などというマユツバ話もある。今回はほぼ真実と思われる海の怪物について書きたい。

ウナギは熱帯の深い海で産卵する。幼魚のウナギは透明で扁平な凡そ鰻と思われない姿をしている。これを学名で「レプトケファルス」と呼ぶ。そして体長が7センチ前後になると少しづつ黒ずみ始め、同時に暖流に乗って遠く旅立ち、例えば日本の河川にたどり着き遡上を始め、何年も後に“蒲焼用の天然ウナギ”となるのである。

 ところが1930年1月に、デンマークの海洋調査船がアフリカ西部の水深300メートルの海底から、体長1・84mの超巨大な紛れもないレプトケファルスを採取したのだ。レプトケファルスと成魚の体長比率は一般的に8・6倍とされている。つまりこのレプトケファルスが運よく成魚のウナギになった時には、体長が実に16m以上の「超化け物ウナギ」に成長することになるのだ。

 1947年12月にアメリカの貨物船サンタクララ号が南米のコロンビア沖を航行中、船首に何かが衝突した衝撃を感じた。当直航海士と甲板員が船首の見張り台から下を覗くと、体長20メートル前後の蛇かウナギのような頭をした胴回りが優に3メートル以上はあろうかと思われる、まさに“怪物”が船首の水面に「く」の字になって引っかかっていたというのである。

 その怪物は波にもまれて血を流していたが、しばらくして流され見えなくなったという。この未知の怪物の正体を正確に確認することは出来なかったのは残念であるが、同貨物船の当日の航海日誌には「蛇かウナギのような正体不明の体長20メートル前後の生物と衝突」と記されていたそうである。航海日誌には絶対に虚偽を書くことは許されない。

この怪物の正体は十中八~九は超巨大ウナギ、つまりは古来からウミヘビの噂となって人々に恐怖を抱かせていた生き物であることに間違いはなさそうである。

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2018年9月 9日 (日)

2018年9月アイビー随筆

アイビー随筆9月号

    「食味」      

         37年理学部卒 大内建二

 作家の故阿川弘之氏は無類の食通と美食家として文壇では知られた存在であった。そしてその娘阿川佐和子氏も父親に似た食通として知られているが、彼女はむしろ料理上手としてよく知られている。これは奥さんに向かって常日頃から「旨いものを食わせろ」とせがむ父親の姿を見ていたから、と考えてよさそうである。

 氏は多くの随筆を書いているが、その中でも傑作のひとつに「食味風々録」という、旨いものを食べた記録をつづった作品がある。大変に面白い。

 氏は何故食にこだわるかを説明している。旧制の中学校、高校、大学そして海軍と、旨いものを食べられなかった時代の自分への反動であるとしている。彼がいうには古今東西旨いものは数々あれども、自分にとって最高にうまいと思う食べ物は、結局は「暖かいご飯にオカカをふりかけ、醤油を垂らして食べるごはん」だそうである。

 本文の中に「弁当恋しや」という一文がある。傑作である。「自分の長男や長女(佐和子)が中学や高校になると、毎朝家内が二人の弁当を作っている。暖かいご飯に様々なオカズを乗せたそれはそれは旨そうな作品」。氏は奥さんに「俺にも作ってくれ」とせがむが、「家の中でお仕事をするあなたには無用のものです」とすげなく断られ、すごすごと書斎に引きこもる阿川氏。

 氏は無類の船好きとして知られているが、彼が言うには「船の上で食べた最高に旨かった食べ物は、南太平洋の孤島へ向かう3日間の小さなボロ船の航海で出された唯一の食べ物」だそうだ。「アルマイトのボウルにご飯が盛られ、それに鳥ガラ出汁のスープをぶっかけただけの食事」だそうだ。「彼が言うには、フランス料理のように素材に徹底的に手を加え、いかにも高級料理でございます。と称する料理は食い物ではない」と酷評している。

 振り返って私はというと、「明日が地球最後の日」という前の晩に食べたい最後の

食事は、「暖かいご飯、沢山の筋子、極めつけの酸っぱい白菜の古漬け、油揚げの味

噌汁」である。阿川氏とあまり変わらないような気がするが。日本人同士である。

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2018年8月 7日 (火)

2018年8月アイビー随筆

アイビー随筆 8月号

 アイビー随筆「金亀子」 

           37年理学部卒 大内建二

 俳聖高浜虚子の俳句に「金亀子投げ打つ闇の深さかな」という有名な句がある。「金亀子」とは「コガネムシ」の意味でレッキとした夏の季語である。
 昭和30年代後半頃までの東京では、夏は郊外でもクーラーなど無く夕食時には縁側のガラス戸を開け放っていた。この時必ずといっていいほどカナブンが外から部屋に飛び込み、電灯の笠に「ブーン、バチッ」と当たった。
 二~三匹の「ブーン、バチッ」が続いた後は、電灯の笠には体長二~三センチのカナブンがゆっくりと這い回っている。気色が悪いので立ち上がり三匹のカナブンを手づかみし、縁側の外の暗闇の中に勢いよく投げるのである。まさに高浜虚子の気持ちがわかる気分である。
 カナブンは別名「ハンミョウ」とも呼ばれ、丸っこい甲虫でその外皮の色は黒や緑色そして金色に輝いてるのだ。これを称して“小うるさい”こいつの別名は「コガネムシ」という、如何にも「高級な虫」のように呼ばれるのである。この「ブーン、バチッ」の情景は最早仙台の奥座敷の作並や秋保等の民家でも見られなくなっているではなかろうか。
 「コガネムシ」と混同される甲虫に「タマムシ」がいる。こいつは体長三~四センチの細長い甲虫で、その色は「カナブン」などと違って一段と美しい。緑がかったその色は受ける光の角度により様々な色に輝くのだ。甲虫の中でも最も美しい部類であろう。小学校の頃、自宅から遠く離れたある森がタマムシが現れることで我々の間では知られていた。しかしそのことは仲間以外には絶対の秘密であった。しかしついに一度もこの「お宝虫」を捕獲したことはなかった。
 奈良の法隆寺に奈良時代に造られたといわれる「玉虫厨子」という国宝があるが、写真で見るとその表面には一面のタマムシの羽がはめ込まれている。一見したところ不気味だが、この厨子一面のタマムシを集めるには、我々子供が考えても十年以上の時間がかかったのではないか、と思われるのである。

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2018年7月 1日 (日)

2018年7月アイビー随筆

アイビー随筆7月号

 アイビー随筆「蕎麦」

           37年 理学部卒 大内 建二

 私はそばが好きである。これまでも蕎麦県である山形県ではかなりの蕎麦屋を巡ったつもりである。行ったところの凡そ八割の店でおいしい蕎麦を食べた。おいしい蕎麦を食べさせる店は、その外観で何となく「私の第六感」で決めて入っていたが、「第六感」の確率は八割ということになる。結構高い確率であると思っている。

 新庄市の南西の山中にある次年子(ゼネゴと読む)の蕎麦、月山の麓の志津の蕎麦、銀山温泉付近の蕎麦屋、左沢(アテラザワ)の蕎麦、真室川町の蕎麦、何れも絶品であった。

 宮城県内でも思わぬところでおいしい蕎麦屋を見つけた。名取から村田町に抜ける県道の村田町に入った付近の山中の道路脇に、一見みすぼらしい蕎麦屋があるが、ふらりと入ったここの蕎麦は格別であった。「十割蕎麦」というのを注文したが、まさに十割蕎麦で、量は決して多くはないが、極め付きの太さの太打ちの蕎麦は絶品であった。但し物凄い硬い蕎麦で、一枚を食べ終わる頃には本当に顎が痛くなった。二枚を食べる元気は無くなっていた。

 岩手県の中尊寺の月見坂参道入り口から国道4号線を三百メートルほど南に行った、国道から少し入り込んだところに「芭蕉庵」という大きな蕎麦屋がある。ここの名物は「静かなワンコ蕎麦」である。一段に12個のワンコ蕎麦が入った盆が2段重ねで出される。三段目は12個の椀に様々な「具」が入っている。

 1椀の蕎麦の量は本式のわんこそばの量と同じで、合計24杯のワンコ蕎麦を自分のペースで食べられるのだ。24杯のワンコ蕎麦は大した量ではないが結構満腹になる。わんこ蕎麦食べ比べの横綱が食べる300杯とはどの様な量になるのであろう。

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