アイビー随筆

2020年9月 3日 (木)

2020年9月アイビー随筆

アイビー随筆 9月号

  アイビー随筆「食堂車」

              37年理学部卒 大内建二

 JRの定期列車から食堂車が姿を消してから久しい。4年前に最後まで残っていた上野・札幌間の特急列車が廃止されると同時に日本の定期列車から食堂車は消えた。消えた理由は新幹線網の発達に伴う列車乗車時間の短縮や、経営合理化に伴う食堂車の採算性の悪さなどである。

 私はかつて食堂車には随分とお世話になった。昭和40年代全般にわたり仕事の関係で東京と九州(門司・津久見)間の往復が多く、所謂「ブルートレーン」と称する全車寝台車の九州特急にはどれほどお世話になったかわからない。乗車する車両は社内の資格に従った旅費規定によって区別されており、管理職に昇格すると三段のB寝台車からゆったりとしたA寝台車に乗れ、食堂車も予約できるのだ。

16時間を超える列車旅の最大の楽しみの一つが食堂車であった。夕方東京を発車すると夕食は買った駅弁か食堂車。翌朝は食堂車で朝食。ブルートレーンの食堂車の定員は40名。「焼き塩鮭」と「卵焼き」に「茶碗蒸」、ご飯とみそ汁に香の物とデザートの朝定食。早朝の長門路を快走する食堂車の朝食の味は格別であった。

 昭和30年代の東北本線の上野・仙台間を所要時間6時間15分で走っていた三本の急行「青葉」、「吾妻」、「松島」にもご丁寧に食堂車は連結されていた。但しこの食堂車は一両の客車の半分が食堂車で、半分は座席車になっていた。定員18名。結構混んでいた。社会人になって間もなく、一度だけ利用したことがあった。列車は「松島」であったように記憶している。

 食堂車のウエートレスは4名であったように記憶する。皆さん若く頭に飾り帽子をかぶり「にこやかで丁寧」である。見ていると若い男性客に対しては特に丁寧で“あったような”気がして、かすかな嫉妬心が生まれる。

確かに動揺する車内で両手に料理を盛ったお皿を持ち、器用に往復する姿には何かしらの「ほのかな気持ち」を抱かせるものがあった。

 ある時九州の帰りの「特急あさかぜ」の夕食で、「タイ茶漬け」を食べた。その後も何回か「タイ茶漬け」を食べたが、この時食べた「タイ茶漬け」の味は絶品であった。お茶漬けというと「特急あさかぜ」を思い出す。

 九州特急の食堂車の経営は東京の「日本食堂」と京都の「みやこ食堂」が担当していたはずである。それぞれ著名である。

 近年所用で上京の折、遅くなった帰りの新幹線の中で東京駅で買った駅弁を食べる機会があるが、隣の人を気にしながらモソモソと食べる度に華麗な食堂車を思い出す。自称鉄道マニアの私としては、数両の食堂車を連結した「食堂車列車」を上野・仙台間に走らせては如何なものだろうかと思っている。乗客は食事のためだけに仙台・上野間を往復するだけ。様々な自慢料理を提供する「食堂車列車」、下手に店を構えるより収益が上がると思いますがね。

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2020年7月15日 (水)

2020年7月アイビー随筆

アイビー随筆7月号

  アイビー随筆「大内宿」  

               37年理学部卒 

                    大内 建二

 福島県南会津郡下郷町にある大内宿は、福島県を代表する観光地としてよく知られている。江戸時代の会津西街道宿場町の往時の姿をよく残しているとして、三重県の旧東海道の関宿や長野県の旧中山道の馬籠宿などと共に、全国的にも有名である。私も同じ名前なので親近感を覚えこの地を何回か訪れている。

 会津西街道は会津藩主が参勤交代などの時に使用した街道で、大内宿から会津田島を通り日光街道に抜け江戸に至る最短の道なのである。当時の人たちは会津若松からこの街道を通り江戸まで五泊六日の行程で辿ったそうだ。多少の山道はあるが約二百キロメートルのこの路を一日平均三十五キロ、一時間平均四キロメートルの速さで歩くことになる。結構な旅だが籠に揺られる殿様も決して楽ではないはずだ。

 大内宿は一時はすっかり荒れ果てていたが、昭和50年代の後半から福島県が音頭をとり復旧・整備を始め、昭和60年初めにはすっかり修復され往時の姿を蘇らせている。

 明治11年にイギリスの女性旅行家のイザベラ・バードが東北一周旅行に旅立ち、途中で大内宿の旅籠「美濃屋」(現存)に宿泊している。彼女の日本旅行記を読んだことがあるが、彼女はこの宿の一泊で散々に蚤の襲撃を受けたことをユーモラスに描いている。

 大内宿の名物に「ねぎ蕎麦」がある。一杯の“掛け蕎麦”を一本の葱を箸の代わりにして食べるのだが、まさに芸当である。時々箸代わりの葱をかじり薬味とするが、「降参」すれば箸を渡してくれる。真夏に行くと街道の両側を流れる小さな水路で冷やしたトマトが売られているが、これが美味しいのだ。ただ最近はその名が知れ渡ったためか観光客が多く、休日などは観光客であふれかえっているのが些か風情を削いでいる。

 大内宿近くの会津鉄道の「湯野上温泉駅」の小さな駅舎は、無人で茅葺屋根の趣ある駅舎として全国に有名である。10数年ほど前に、ここの民宿温泉宿に学生時代に所属していたサークル仲間と宿泊したことがあったが、野趣味ある素掘りの露天風呂が素晴らしかった。夕食に猪鍋が出た

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2020年6月15日 (月)

2020年6月アイビー随筆

アイビー随筆6月号
 アイビー随筆「タクシー」
              37年 理学部卒   大内 建二
 今年の初めに足を痛め、通院などのために近距離ながらタクシーを利用する機会が多かった。以前からそうであったが仙台のタクシーの運転手は概して楽しい人が多い。私はタクシーに乗車中に運転手と会話をすることが多い。出身地の話をすればほぼ全ての場合会話が弾む。
 最近気が付くことだがタクシー運転手の年齢が高齢化している。それだけに話題も自然に豊富になるのだ。会話も自然に方言になる。ある時など自宅のマンションに到着したが、話が終わらず運転手はメーターを倒してから「ほんでっしゃ」と話が更に続いたことがあった。
 話は変わるが、30年以上前の昭和60年頃、仙台の日交タクシーが黒塗りの有名なロンドン・タクシーを数台輸入し運用していたことがあった。イギリスのオースチン社製のタクシー専用の有名な車で、仙台駅のタクシー乗り場に常に1~2台が客待ちをしていた。
 ある時興味に駆られて自宅まで乗車したことがあったが、乗車した感じはと言うと「すこぶる乗り心地が悪い」であった。
 後部の客用の客席は背モタレが90度の直角で天井が高い。これは正しく背の高いシルクハットを被りステッキを持ったイギリス紳士が、背筋を直角に伸ばし威厳をもって乗り込むための車である。助手席と運転席の背後には折り畳み式の補助椅子がある。同行の執事でも座るものなのか。とにかくバネも硬く尋常なタクシーではなかったことを覚えている。
 変わったタクシーと言えば昭和30年代の中頃、東京ではフランスの小型車ルノー4CVやドイツのフォルクスワーゲン・カブトムシをタクシーに使っていた。ある時学校の正門前から池袋駅西口までの最短距離を友人と興味に駆られてルノー・タクシーに乗ったことがあったが、とにかく小型すぎて窮屈で乗り心地も最悪だった。料金は最低料金の60円(現在の価格で660円相当)であった。この車、日本の日野自動車が当時ノックダウン生産(部品を輸入し日本で組み立てたる方式)していたものであるが、直後に日野自動車はこの車の技術を手本に、ベストセラーカーの「ベレット」を量産したのだ。

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2020年5月 2日 (土)

2020年5月アイビー随筆

アイビー随筆5月号

 アイビー随筆「若葉」

             37年 理学部卒 大内建二

 現在小学校の音楽の授業で歌われているか否か知らないが、昭和26年頃から小学校4年生の音楽の時間で「若葉」という歌が歌われ始めた。「あざやかな緑よ、明るい緑よーー」で始まるこの歌は大変に美しい歌である。近年日本の歌100選にも選ばれた。

 実は私はこの歌を習ったことがない。私が高校2年生の頃(昭和30年)、6歳年下の小学校4年生の弟が家でこの歌を歌っていたのだ。私が習ったことがない歌であるが大変に美しい歌である。近年になり思い出しこの歌について調べたら驚くことが分かったのだ。

 この歌は戦争真っ最中の昭和17年2月に国民学校(現在の小学校の事)唱歌として発表されたそうである。実は同じ時期に発表された国民学校用の唱歌に皆さんもご存知の「スキー」がある。「山はしろがね、朝日を浴びて」で始まる皆さんご存知の歌だ。私も小学校の時に習っている。

 何故同じ時期に出された「若葉」を我々は習わなかったのであろう。一説には次のような理由があったというのである。昭和26年の講和条約発効に伴い日本が占領国から解放されるまで、少しでもかつての軍国精神に関わる言葉や文言がある場合には、その一切が、当時の泣く子も黙る連合軍最高司令部(通称GHQ)の監視下で使うことが出来なかったというのだ。「若葉」の歌詞の中の「鳥居」はまさに軍国精神の神髄である神道精神に繋がるとして、文中に使うことが出来なかったというわけだ。確かに「わかば」の歌詞の中に若葉が「鳥居を包み」という文言がある。これが使用禁止の原因になっていたというのである。真偽のほどは分からないが、もし事実だとしたら何とも枝葉末節な理由である。時代の流れの恐ろしさを感じるのである。

5月、ドライブで二口渓谷に向かう途中、秋保温泉付近を行く道路の両側の木々には、沢山のヤマフジが絡まり乱れ咲いているのが見られる。美しい眺めである。

1番「鮮やかな緑よ、明るい緑よ、鳥居を包み藁屋を隠す、香る香る若葉が香る」

2番「爽やかな緑よ、鮮やかな緑よ、田畑を埋め野山を覆う、そよぐそよぐ若葉がそよぐ」

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2020年4月 2日 (木)

2020年4月アイビー随筆

アイビー随筆4月号

 アイビー随筆「仙台市内道路の激変」

               37年 理学部卒 大内 建二

 私の手元に九十年前の昭和4年現在の仙台市の詳細な地図がある。この地図と現在の市内地図を比較すると驚くほどの違いがあるのだ。昭和4年当時の仙台市内地図の姿は昭和20年7月の仙台大空襲当時とほとんど変わりはない。しかし戦後、戦災で大損害を被った仙台市内を新規開発すべく大規模な区画整理が断行された時、現在の姿に変わったのである。特に道路の変わりようが驚愕である。

大規模区画整理が行われるまで現在の「広瀬通」、「青葉通」、「定禅寺通」、更に「愛宕・上杉通」や「国道45号線」、また「晩翠通」、「宮城野通」更に「新寺通」や「北目町通」、「二番町大通」は無いのである。かすかに「定禅寺通」と思しき通りが東西に一直線に伸びているのが判別できるが、この通りも現在の定禅寺通りの姿ではなく路地であったのだ。そして「二番丁大通」や「北四番丁通大通り」も細い路地であった。

 当時の仙台市内の繁華街は国分町通、一番町通の細い路地、そして南町通りであったのだ。南町通りの現在の駅前から二番町大通付近までは芝居小屋や活動写真館(映画館)が並ぶ歓楽街であったという。現在の三越デパートは東本願寺別院であり青葉通りや藤崎デパート、さらには七十七銀行本屋ビルは住宅地となっていた。大改革の際にここに青葉通りが貫通したのである。全く姿が変わってしまったのだ。

私が会社の仙台支店に転勤して来たのは40年前の昭和55年であったが、当時は二番町大通も南町通りから南側はまだ整備中で、五橋のY字交差点まではまだ貫通していなかった。そして二番町大通も勾当台公園付近では直線ではなく鈎型に曲がっていた。しかし昭和60年代に入る頃から仙台市内の道路整備は急激となった。

 昭和61年に三越デパートの南側にある20階建ての“日本生命タワービル”が完成したが、このビルは当時“東北で最も高いビル”として騒がれた。

それからわずか30数年の間、特にこの10年以内の仙台市内の高層ビルの建設ラッシュには目を見張るものがある。日本生命ビルはもう目立たない。

 現在の日本の100万都市は12カ所であるが、仙台はその12番目であり人口は109万人である。産業の拡大に伴い仙台市も今後さらに拡大、拡張されてゆくであろうが、どのように変化してゆくのであろうか。

 私が住んでいる長町も仙台副都心計画の進展に伴い“あれよあれよ“という間に激変してしまった。特にこの10年の間に高層マンションや中層マンションが雨後のタケノコのように立ち並んでいるが、その収容人員は推定約3、600所帯、総人口も少なくとも12、000人超えの増加である。おかげで何もなかった近所には客の増加を狙って何とIKEA!、そして3棟の新しい大型スーパー。5日に3回は飛来するドクターヘリを扱う市立病院の新ビルを始め、各種医療施設が立ち並び至極便利になった。

 全国JR1,000駅の乗降客数の調査では、仙台駅の2018年度一日当たりの乗降客数は169、928人で全国49位。長町駅は10,513人で全国291位である。私が仙台に移り住んだ20年前の長町駅の乗降客数は2,100人と聞いている。物凄い人口増加である。確かに長町は仙台市内の住みたい街トップに位置しているが、それを立証するような数字である。

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2020年3月 5日 (木)

2020年3月アイビー随筆

アイビー随筆「仰げばとおとし」

                 37年理学部卒 大内 建二

 

 3月は学校の卒業式の季節である。58年前の立教大学の卒業式の様子が思い出される。大学の卒業式は小学校、中学校、高校とは大きく違っていた。タッカーホールを埋め尽くした男子学生のほぼ全員が、それまでの学生服を脱ぎスーツ姿であった。

 我々の卒業式の来賓は、当時のアメリカ駐日大使のライシャワー氏であった。英語のスピーチの内容はヒアリングに慣れない我々にはほぼ全て理解できなかったが、彼が大変にスマートで端正な顔立ちの紳士であったことが印象に残っている。最後に二階席の聖歌隊が讃美歌を合唱したが、それが何の曲であったかは覚えていない。

 ところで我々の年代にとっては「仰げばとおとし」は卒業式の定番の歌であるが、近年この歌はほとんど歌われていないそうだ。何故なのだろう。

 次第に歌われなくなったのは昭和50年(1975年)頃かららしい。この時代と一致するのはテレビ番組で一世を風靡した「金八先生」だ。このドラマの中での主題歌は「贈る言葉」であったが、この曲が卒業式の歌として急速に一般化していったようであり、同時に「蛍の光」は歌われてはいるけれども、文語体歌詞の「仰げばとおとし」は急速に消えてしまったのだ。敬遠されたらしいのだ。

 ところでこの歌については面白い話がある。この歌は明治17年(1886年)に日本の唱歌に採用され、日本の歌100選にも選ばれている。

不思議なことだが実はこの歌の作曲者は長い間「作曲者不詳」となっていたのだ。ところがごく最近になりこの作曲者が判明したのである。何と2011年(平成23年)、作曲者はアメリカ人のヘンリー・パーキンスと言い、彼が作曲した「Song for the close of our school」がまさに「仰げばとおとし」と曲が一致したことが分かったのである。英語の題名も何か「仰げばとおとし」の歌詞に合致するようである。

 ところでこの歌には何とも理解できない出来事があるのだ。この歌は3番から成り立っているが、現在は本来の2番は歌われず、本来の3番が2番として歌われているそうである。これは知らなかった。

 理由は何とも理解不能なことである。戦後の昭和40年代に入り、2番の歌詞の中の「身を立て名を上げやよ励めよ」という文句は立身出世を励ますもので、民主主義の時代にはそぐわない差別を助長する歌詞、として強引に削除されたというのである。何とも大人げない話ではないか。

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2020年2月10日 (月)

2020年2月アイビー随筆

アイビー随筆2月号

 アイビー随筆2月号「遠足」

               37年理学部卒 大内 建二

 時季外れの話題となるが、小学校時代の遠足の話をしたいと思う。先月必要があり過去の写真を探していた折に懐かしい写真が出て来、しばし思い出にふけった。小学校3年生(昭和22年)の時の春の遠足の写真である。私にとって初めての「まともな」遠足の写真であるが、茶色く変色した写真に映し出されているクラス全員と付き添いの先生たちの服装がすごいのだ。

行き先は横浜市内の花月園という遊園地であるが、男子生徒の中にはアンダーシャツらしき姿が何人もいる。女の子のほとんどはモンペ姿である。海軍兵学校出の担任の教師の服装は海軍兵学校の制服である。全てが「無いない尽くし」の着るものもない時代であるが、よくも遠足などを実施したものだとむしろ感動した。

 東京都内の小学校の遠足は春・秋の二回で行き先も大体決まっていた。井の頭公園、逗子や江の島そして鎌倉の海岸、高尾山と相場が決まっていた。ところが2年生まで宮城県の高清水町に疎開していた私の遠足の思い出は、今では想像も出来ない仰天ものであった。遠足は秋の一回だけであったがその内容が凄かった。1年生の時の「遠足?」は近郊の田圃での落穂拾いであった。学校から2キロメートルほど先に広がる9月末の稲刈りの終わった広大な田圃に、全校生徒(300人?)が入り落ち穂を拾い集めるのである。全校生徒が拾い集めた落ち穂から収穫されたコメの量は少なくとも1俵(60㎏)にはなったはずであるが、その米がどうなったのかは知らない。

 2年生の時の遠足は再び田圃である。なんと「イナゴ採り」である。9月の稲刈り直前の田圃にはものすごい数のイナゴが飛び交っている。前日に教室で各自が新聞紙で袋を作らされ、当日各自袋を持って田圃に分け入るのである。無数のイナゴが飛び交う中、子供たちの素早い手の動きで無数のイナゴが捕まえられた。昼前に学校に持ち帰ったイナゴは、学校の大きな炊事室の五右衛門風呂のような鉄釜に投げ込まれ炒められるのである。その数一万匹は下らないはずだ。

逃げ出し飛び交うイナゴを相手に炊事室内では大騒動が持ち上がるのであるが、それを生徒達は窓や扉超しにわいわい騒ぎながら眺める。

 ことごとく炒られたイナゴは少しづつ各人に配られ醤油をかけて食べるのであった。動物性たんぱく質の絶対的な不足の時代の、子供たちの栄養補給に行われた苦肉の策であったのであろう。何とも凄い遠足であった。

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2020年1月 8日 (水)

2020年1月アイビー随筆

アイビー随筆 1月号 

  アイビー随筆「学食」

              37年理学部卒 大内 建二

 1月号なので正月らしい題材にしようと思ったが、良いお題が見つからない。お腹がすいていたので今月はお正月らしからぬ題材にした。

 4年間の学生生活の中でも特に思い出に残るのは授業でもサークル活動でもなく学食である。実は私は学食で初めて食べた食べ物が案外に多いのだ。

 家族8人の我が家の食卓は明治38生まれの母親が仕切っていた。そのレパートリーは現在のような豊富なものではなかった。出てくるオカズの種類は決まり切っていた。父親が気仙沼、母親が仙台出身の我が家の夜の食卓のオカズは大半が魚であった記憶しかない。

 毎日午前中、商店街の魚屋の御用聞きの若衆が勝手口に「チワーッ」とやってくる。経木に書き出された本日の魚を見て、「今日はサンマ8匹ね」などと母親が注文する。サザエさん漫画と同じである。

 従って我が家の食卓に洋風の食べ物が出てくることはまず無かった。出てきても「アジのフライ」、何故か「豚肉のホワイトシチュー」程度である。

 このような食生活の中にあった私が大学の学食で見たメニューは衝撃であった。「スパゲッティー・ミートソース」、「同ミートボール」、「カツカレー」、「ハンバーグ定食」等々。「スパゲッティー・ナポリタン」に感激し、家に帰り母親に「作って」と言ったら、「そんなハイカラなものは作れません」とにべもない返事。

4年生の時に新築の5号館に出来た新しい第二学食では「スパゲッティー・シシリアン」なる「新種」の洋食が現れた。細かく切ったハムの入ったホワイトソースで絡めたスパゲッティである。スパゲッティ・カルボラーナの元祖である。旨いのだ。

3年生の頃から贅沢ながら学食に飽き、近くの大衆食堂に通うようになったが、値段は学食と大きな違いはない。Aランチ、Bランチなるものを常食したが、ABの違いは小さなポークカツとビーフカツの違いである。

 インターネットで検索したら東京の大学の学食比較が出てきた。何と我が立教大学の学食が食堂の雰囲気と品数とコストパフォーマンスで堂々の一位となっているではないか。学生でなくとも自由に入れるので池袋界隈では結構な人気であるらしい。

 追伸: キャンパス内の校友会館一階の日比谷松本楼のランチ「ビッグプレート」は秀逸である。値段はそこそこで食べ応えがあり美味しい。お勧めである。

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2019年12月 2日 (月)

2019年12月アイビー随筆

 アイビー随筆12月号

  アイビー随筆「珍苗字」

               37年理学部卒 大内 建二

 

 NHKの夜の番組に「日本人のお名前」という面白い番組がある。これを見ていてハタと気が付くと、自分の周りにも結構変わった苗字、中には珍苗字ともいえる友人知人或いは付き合いの人々が居たことに気が付いた。

  小学校時代からの竹馬の友の苗字は「印田(インデン)」。変わった苗字だが三重県のごく一部に存在する苗字だそうだ。彼の親は三重県出身だ。

  中学になると「布(ヌノ)」、「干川(ホシカワ)」、「疋田(ヒキタ)」、「桃谷(モモタニ)」、「大社(オオコソ)」等が現れる。そして高校時代にはクラスメートの親友に難読の「鰀目(エノメ)」が現れた。彼は目黒区自由が丘駅前の「エノメ薬局」の三男坊で天体大好き人間であった。彼は東大の物理学科に進学し天文物理の道に入り、後に日本の電波望遠鏡開発の著名な父となった。

  大学時代にはクラスメートに「庵地(イオジ)」なる珍名が現れた。社会人になると珍名の輪は一層広がる。同期入社の友人の中に「内匠(タクミ)」、「吉鶴(ヨシツル)」、「常盤(トキワ)」、「領家(リョウケ)」、「津曲(ツマガリ)」、「行田(ギョウダ)」なる人物も現れた。そして会社の支店に勤務するようになると珍名の規模はさらに広がっていった。北海道の札幌支店に勤務した時に協力会社の人物の中に、「扇子(センス)」、「棒(ボウ)」さらに「業天(ギョウテン)」なる人物が現れた。正に仰天である。

  地方では珍苗字ばかりでなく珍駅名にも巡り合える。東北地方の珍駅名(難読駅)の横綱は青森県の五能線の「艫作」と山形県の奥羽本線の「及位」であろう。ご存知とは思うが夫々「ヘナシ」そして「ノゾキ」と読む。

  和歌山県の紀勢本線には「朝来」という駅がある。とても「アッソ」とは読めない。鹿児島県の肥薩線には「大畑」という周囲に集落もない駅がある。「オオハタ」ではなく「オコバ」と読むのだ。地名の由来が知りたいものだ。

 中国地方の山陰本線にはもっと凄い日本一の難読駅がある。「特牛」がそれだ。何と読むか? 正解は「コットイ」である。

 

 地元仙台市内にも仙山線に他の地域の人には読めない駅がある。皆がご存知の青葉区の「愛子」である。知らない人はこれを「アヤシ」とはとても読めないはずだ。

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2019年11月12日 (火)

2019年11月アイビー随筆 続き

11月のアイビー随筆にコメントをつけて下さった方がいました。
アイビー随筆の筆者の大内さんからさらにそのコメントへの感想が寄せられましたの下記ご覧下さい!

 

~~~コメント~~~

現在の実方中将の墓は、表現は悪いが、人里離れた場所。
オイラの勝手な想像(=妄想)だが、街道の発展史が関係しているのでは?
現在仙台市内で街道と言えば、国道4号線の前身=奥州街道を思い浮かべる方が殆どだろうと思う。
しかし、奥州街道が整備されたのは江戸時代以降。
という事は江戸時代以前には奥州街道らしきものはあったかもしれないが、奥州街道そのものは存在していない。
では、奥州街道以前には何が存在していたのか?高校時代に大学受験で得た、オイラの貧弱な日本史の知識を駆使すると、それは東山道。都から国府のあった場所(現代風に言えば県庁所在地)を、山川を問わず、最短距離で結んだ道。例えば、源義経が平泉に落ち延びる際には、奥州街道は未だ存在せず、東山道を利用したのではないだろうか。
現在の実方中将の墓の所在地は、東山道沿いにあった痕跡ではないかと勝手に想像、否、妄想している。
伊達政宗の仙台開府以前~平安時代末期まで、郷土史関係の本を読んでも、殆ど空白に近い。その空白期間に南北朝時代があり、多賀城、仙台の岩切城、福島県北にある霊山城が歴史書にほんの少し登場するが、その間に南北朝の皇子(義良親王等)・公家(北畠顕家等)・武士達が東山道を使って東奔西走、否、南北朝だけに、北奔南走し、戦さをした様子を想像するのも歴史の醍醐味か。

 

 

小生の11月号アイビー随筆にツイートされた方の感想文。大変に興味深く拝見しました。県道39号がかつての東山道ではなかろうか、と思われる文章でしたが、小生も同感を覚え感想を書かせていただきました。

 寄稿された方のお名前は分かりませんが、全く同意見です。江戸時代以降の奥州街道は全く新しい道と考えるのが正解のようです。県道39号線は福島方面から仙台に向かうごく自然の道筋と考えることが出来ます。過去には39号線に相当する道は現在の熊野神社付近で直進し名取川を舟で渡り、旧笹谷街道に繋がっていたのではないか、とする説があります。うなずけるもので、現在の河原町付近の広瀬川は江戸時代までは大規模な渡し場になっており、また広瀬川下流方面から運ばれた木材が陸揚げされていた場所でもあります(南材木丁、穀町、舟丁などの地名が残る)。

 東山道はここで広瀬川を船で渡り北に向かっていたものと考えることも出来ます。現在の長町は江戸時代にできた宿場町であり、旧国道4号線は江戸時代からの道と考えるのは妥当と考えられます。

 江戸時代頃の現仙台市内の道は大変に興味深いです。

                     大内 建二

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