アイビー随筆

2018年2月18日 (日)

2017年2月アイビー随筆

「ピーちゃん」

       37年 理学部卒 大内 建二

 一昨年の3月の初め、娘が会社の帰りに夜の寒空の中、道路脇の植え込みの中でピーピー鳴いているインコを見つけ、手で包み持ち帰ってきた。飼っていた何処かのインコが開けた窓から逃げ出したのであろう。暖かくなると手の上に乗って逃げようともしない。よく慣れているがまだ子供のようだ。

 翌日早速ホームセンターに出向きケージや餌などを買い込み飼うことにした。初めは警戒しているようであったが毎日水を取り替え、ケージの中を掃除し餌を継ぎ足したりしているうちにだんだん慣れてきた。私の手にも乗るようになり、何時までもじっとしている。

 様子が分からないので、数日後に探し出した「小鳥クリニック」へ連れて行き診断をしてもらった。生後半年くらいのメスのセキセイインコで、健康とのこと。ただ逃げ出さないように若い女医さんは羽を少し切った。

 名前は「ピーちゃん」としたが。女医さんはカルテ!に「大内ピー」と記した。笑ってしまった。

 小鳥特有の「擦り込み現象」なのであろうか、その後は毎日世話をする私に完全に懐いてしまった。ケージの扉は昼間は開けっ放しにしているので、ピーちゃんは毎日同じお気に入りの場所に飛び移り、何かを飽かずしゃべり、おなかがすくとケージに戻り餌をついばんでいる。

 「ピーちゃん」と呼ぶと「ピチャン(ピーと長く発音出来ないらしい)」と返事をし、お気に入りの場所から飛び降りトコトコと歩いて近づき、上を見上げて再び「ピチャン」と鳴く。肩に乗せろという意味らしい。

 肩に乗せるとさも安心したようにじっとしている。実は同じことをやっても家内や娘には全く知らんぷりなのだ。完全に「擦り込み」が出来てしまっているのだ。命の恩人の娘に対しても手を出すと激しく「ピピピッ」と警戒の声を出す。娘は「この恩知らず!」と大むくれである。

 ピーちゃんの存在は家庭をことのほか和ませる。ただ困ったことに発情期を迎えると、私を相手と勘違いし盛んにモーションをかけてくるのだ。「チガウダロウ!」と言っても聞く耳を持たない。盛んにすり寄ってくる。ただこれも一時的である。

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2018年1月11日 (木)

2018年1月アイビー随筆

アイビー随筆「飛行機からの眺め」 

         37年 理学部卒 大内建二

 

 会社勤務中に出張ではかなりの回数飛行機に乗った。地理大好きの私は常に窓際の席を確保し搭乗した。東京・福岡間は絶好の山岳展望が楽しめ、札幌往復では東北地方全域の展望が楽しめた。

 ある年の正月早々に上京することになり、遅まきながらの「初日の出」を眺められると思ったら、あいにく左側の窓際席は満席。皆さんの目的は同じであったのだ。お目当ては遅まきながらの「初日の出」。

 会社の札幌支店に勤務中、札幌と羽田間の空の旅は往復30回を超えたが、この間には大変珍しい景色を眺める機会があった。その一つが夜の日本海に輝く、集団で漁をする「イカ釣り船」の集魚灯(いさりび)の明かりである。下北半島の上空約九千メートルを飛行中に、右側の席の窓のはるか遠方一面に、猛烈に輝く明かりの群が見えたのだ。よくよく観察すると明らかにシーズン中のイカ漁の集魚灯の光である。100キロメートル以上離れていても猛烈なまぶしさである。人工衛星からも容易に眺められるに違いない。

 北海道内で札幌の丘珠飛行場からオホーツク沿岸の紋別までプロペラ機のYS11に搭乗した。2月の末であった。小さなローカル空港の紋別空港は海岸に最接近している。滑走路に着陸態勢に入った機体の窓から一面の真っ白な雪原が見えたのだ。何と限りなく広がる流氷原なのである。

 北海道の渡島半島の西の海上に浮かぶ奥尻島には函館空港から双発の10人乗りの小型旅客機が運航されている。一度所用で同島の生コン会社に行った時にこの小さな飛行機に乗った。奥尻地震発生の一年前であった。

 超小型旅客機は貨物を座席に乗せて乗客は8名。千メートルにも満たない高度を、渡島半島の複雑な山の頂スレスレに大きく揺れながら一路奥尻へ。

 客席と操縦席の間には仕切りはなく、操縦士の動作は丸見えである。強い向かい風のために飛行機が斜めに飛ぶことも初めて知った。

奥尻空港(実際は単なる短い滑走路と掘っ立て小屋だけ)の滑走路への着陸の姿は丸見え。「ドスン」と車輪が地面に着いてしばらく滑走して終わり。今まで乗った旅客機では味わえなかった最高のスリルであった。吹き流しが一本勢いよく泳いでいた

 空の旅で私の最高の楽しみは「日本100名山」の「山座同定」であった。

おかげで飛行機の窓から65座を確認することが出来た。望外の喜びである。

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2017年12月20日 (水)

2017年12月アイビー随筆

アイビー随筆12月号

 アイビー随筆「数学授業の悪夢」    

                37年理学部卒 大内建二

 最近はさすがになくなったが、20年ほど前までよく同じ悪夢を見た。内容は高校時代の数学の授業の夢である。高校時代の3年間、同じ数学の教師の授業を受けた。彼はわが校が旧制の中学校時代から住み着いている初老の教師で、ドングリのような頭はゴマ塩の坊主頭。黒縁の真ん丸なメガネをかけ、3年間同じ着古した背広姿で足元は雪駄履きで廊下を歩き、彼の足音で恐怖の数学の時間が迫ってくるのを感じた。あだ名は「スッポン」と名付けられていた。食いついたら放さない、という意味だ。

 彼は授業中に常に生徒を指し答えを迫り、定義なども必ず一字一句間違いなく言えるまで何度も繰り返し言わせた。彼は毎授業、常に出席番号1番から指すのだ。出席番号6番の私は常に油断なく身構えなければならなかった。そして出席番号25番くらいで毎回授業は終わる。卒業までの3年間、出席番号26番以降の仲間にはこの授業の恐怖と緊張感は理解できなかったのだ。正しい答えが出なければたちまち「立ッチョレ!」と怒鳴られる。私などはどれほど立ったまま授業を聞いていたかわからない。

 ただ時々面白いことを教えた。「π(パイ)」の数十桁の暗唱の仕方である。「ミヒヨヒゴクニムスバレイミイヤクナクヤミニナクミニミテハジヨーーー」これを数字に置き換えればπの数字である。今でも30桁くらいは言える。

 一年生の時の二次方程式では、解の計算式を「死んでも忘れるな」と言われ一生懸命覚えた。死にそうな一歩手前の今でもスラスラ言えるが、何の役にも立っていない。三角関数のサイン・コサイン・タンジェントの公式も、身振りを入れた手踊り方式で教えられた。今でも出来る。傑作である。

 3年生になり微分・積分・確率・行列などと進むと難解極まりなくなり、授業内容も三段も四段も厳しくなり、立ちんぼの時間がますます増える。授業中教室の半分の生徒が立たされることも稀ではなくなった。壮観である。

 この超難行・苦行を経たためか、数学2科目問題の物理学科入試問題は、比較的容易に解答できた。スッポンに感謝である。ただ授業の悪夢はその後40年間なかなか消えなかった。まさに後遺症である。

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2017年11月26日 (日)

2017年11月アイビー随筆

アイビー随筆 11月号
 アイビー随筆 「紅葉」 
           37年理学部卒 大内 建二

 紅葉真っ盛りの季節が廻って来た。私は未だに記憶に残る絶景の紅葉を過去に二度見ている。その一つは既に60年近くも前になるが、10月の快晴の日に仙山線に乗り山寺に向かった時、作並から山寺の間は正に紅葉の真っ盛りで、特に奥新川付近の山肌の紅葉は絶景で、秋の太陽の照り返しを受けた赤・黄色・橙色の光は車内まで染め抜きそうであった。
 今一つは10年ほど前に秋田の秘湯である乳頭温泉に行ったとき、鶴の湯温泉の裏山一面の紅葉である。よく例えられるように「絵具をぶちまけた」ような物凄い紅葉を見た思い出である。大袈裟ではなく、あまりの凄さにしばらく呆然と佇むほどであった。
 都市化と温暖化が促進され、気温の変動に大きな変化が現れて最近では美しい紅葉を愛でる機会が少なくなってきた感は否めない。この仙台市内でも極めつけの紅葉を見る機会が少なくなってきたように感じる。奥新川は場所的にはレッキとした仙台市青葉区なのだが、近年の同地の紅葉は些か色あせているようにも見受けられるのは気のせいか。
 しかし仙台市内の街中には、今でも素晴らしい紅葉が眺められるとっておきの場所がある。お教えしよう。一つは泉区紫山の宮城県立図書館の北側の山肌である。11月初めころに図書館の中央入り口に入る時、後ろを振り向いてください。素晴らしい紅葉が眺められます。
 今一つは若林区役所の構内東側に屹立する巨大なモミジの木の紅葉だ。このモミジの木は鬱蒼として例外的に巨大である。恐らく仙台市の保存樹木であろう。そして11月に入るとこの巨木は見事なモミジの紅葉を見せてくれる。圧巻である。
 仙台市内にはまだまだ見事な紅葉を見せてくれるところが多い。八木山龍ノ口渓谷の紅葉、大倉ダムのダムサイトの紅葉、秋保大滝周辺の紅葉、愛宕上杉通のイチョウ並木の見事な紅葉、泉パークタウン周辺の紅葉等々。やはり仙台市は自然に恵まれ過ぎているのだ。ただ愛宕上杉通の落下して車に踏みつぶされた膨大な量の銀杏の匂いには些か閉口するが。これも自然が多い恵みの香り、秋の風物詩として我慢して楽しむべきなのだろう。

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2017年10月 7日 (土)

2017年10月アイビー随筆

アイビー随筆10月号

 アイビー随筆「船の言葉」 

      37年理学部卒  大内 建二

 定年退職後に船や海事に関わる書籍を書き始めて早くも17年が経過した。現在では世界の往来は全て飛行機の時代であり、船で海外に出向くという時代ではなくなっている。そのためか特に日本国民の間では、船に関わる書籍は珍しい存在になっており、むしろ興味の対象となり易いのである。

 世間では船が話題となると直ちに大型豪華客船によるクルージングが話題となるが、超大型高層マンションを横倒しにしたようなこれら船には全く興味がわかない。地上のレジャー施設を単に海上に浮かべただけの代物には、何の興味もわかないのである。本来の船の旅の楽しさと面白さとは程遠い存在となっている。

 船の世界には商船であれ軍艦であれ、様々な伝承や習慣が存在している。この古来から伝わる船の習慣を調べるのも結構面白いのである。

 船の世界では19世紀の初めより世界的な約束事が次々と出来ている。代表的なものに例えば船舶航行衝突予防法第1条である「右側通行の原則」がある。互いに相対する船がすれ違う時、互いの船は互いに相手を左に見てすれ違わなければならないという規則である。海上の船の通航は厳格に右側通行と決められているのだ。。

 私は歩道を歩いている時に人とすれ違う時、必ず相手を左側にしてすれ違う習慣が何時しか身についてしまっているのだ。海事関係の書籍を記述する多くの人の身に付いた不思議な習慣なのである。

 旧日本海軍や海上自衛隊では数の数え方に独特の約束がある。例えば0,1、2、3ーーという場合、「マル、ヒト、フタ、サンーー」と言うのである。例えば「午後5時30分集合」という場合には「ヒト、ナナ、サン、マル集合」というのである。これは一見言い難そうであるが、絶対に聞き間違いが起きないための約束事なのだ。

 私は家の中ではよくこの言い方をしているが、娘が何時しか習慣とし、「今日の帰りはヒト、ハチ、サン、マルだからね!」と言い出した。

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2017年9月24日 (日)

2017年9月アイビー随筆

アイビー随筆9月号
 アイビー随筆「珍味」  37年理学部卒
                大内 建二
 東京の両国橋の東たもとに江戸時代から続く獣肉店「ももんじ屋」という店がある。ここの名物は「イノシシ鍋」や「鹿肉料理」である。
 私は所謂「ゲテモノ」好きではないが、かつて「ももんじ屋」でも滅多に見かけそうもない肉を食べたことがあった。
 立教祭が終わった直後の数日の休みを利用し、私が所属していたクラブ「地理学研究会」のメンバーは毎年慰安旅行を行った。行く先は金のない学生の身分であるために、山奥の温泉宿を探し一泊旅行を行った。温泉宿とは聞こえはいいが、要する温泉のある山小屋だ。
 2年生の時の行き先は新潟県の苗場山山麓にある逆巻温泉。山小屋の感覚十二分の「旅館」である。夕食に出されたメインは「熊汁」であった。前の週に宿の主人が付近の山で仕留めた熊の肉である。冬眠前の熊肉は脂身が十二分の肉。これが存外においしかったのである。お皿には山鳥の煮物もあった。岩を掘り起こして造った温泉は信濃の秋を満喫させた。
 会社の札幌支店に勤務中の秋、富良野の生コン会社の社長から手土産にと、エゾ鹿肉の塊4キロをもらった。いかにも北海道である。2日後の土曜日に、支店のメンバーと家族等30名前後と札幌近郊の公園でバーベキューを催すことになっていた。もらった鹿肉4キロの塊を家内に預け、「焼き肉用にスライスして味つけして」と頼んでおいた。大変な作業だ。
 当日家内も参加し支店総出の焼肉パーティーが始まった。ところがである。始まるとほとんど同時に、まさに「アッ」という間に4キロのシカ肉は30数名の胃袋に収まってしまったのだ。私が食べる間もなかった。家内は「せっかく苦労して作ったのに一切れも口に入らなかった!」。26年経つ今でも文句を言っている。エゾシカの肉は牛肉よりもおいしく、北海道道民
が最も美味として愛する食肉なのである。
 根室半島の突端の納沙布岬灯台に行った時、何もない場所に一軒だけポツンと小屋が建っていた。お土産屋である。覗いてみると驚いた。どこで製造したのか「オットセイ肉の缶詰」、「ヒグマ肉の缶詰」、「エゾシカ肉の缶詰」が陳列されているのだ。「ヒグマ肉の缶詰」のラベルは両足立ちしたヒグマの「ガオーッ」と叫ぶ絵である。食欲が萎える。
 北海道の釧路の酒場で「マダラの白子」の刺身、「ニシン」の刺身を食べた。この両方は獲れたて現場で、余程に新鮮でないと食べることは出来ない。珍味ではなく最早「超」が付くグルメなのである。

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2017年8月 5日 (土)

2017年8月アイビー随筆

アイビー随筆8月号

  アイビー随筆「エキメロ」  37年理学部卒 大内 建二

 

 東京のJR駅で電車の発車ごとに奏でられるいわゆる通称「エキメロ」はなかなかに良い雰囲気を醸し出す。急き立てられるような発車ベルとは乗客が受ける感覚は全く違うのである。穏やかになる。

 この「エキメロ」は、例えば山手線の場合29駅すべてが違うわけではなく、数曲を振り分けて使っているのだ。そして連続する駅のメロディーが重なることはない。一番多く使われているメロディーは「せせらぎ」という曲で、鶯谷、御徒町、有楽町、浜松町などで使われている。面白いことだが、田町から日暮里までの間、山手線と京浜東北線は上下線同じホームを使っているが、発車に際しては夫々曲が違うのである。お気づきですか?

 「エキメロ」には二曲だけ例外がある。山手線の高田馬場駅の「エキメロ」はテレビ漫画「鉄腕アトム」の主題曲が使われているのだ。これは

作者の手塚治が若かりし頃この駅の周辺に下宿していたことに由来するのである。また京浜東北線の蒲田駅の「エキメロ」は、有名になった映画「蒲田行進曲」のワンフレーズが使われている。上京の際にはぜひJR駅毎の「エキメロ」を楽しんでは如何? いまやこの「エキメロ」は全曲CD化され、ベストセラーともなっているのである。 「エキメロ」のルーツはかつての国鉄の長距離列車の車内放送の前奏にあるのだ。私は会社勤務時代に昭和39年から46年にかけて出張で東京と門司の間を所謂ブルートレーン特急で何度も往復した。この時例えば特急「あさかぜ」が朝6時に山陽本線の小郡駅付近に達すると、車内放送の車掌の第一声が聞こえてくる。その前に前奏の一曲が流れるのである。曲名はドイツの作曲家ハイケンスのセレナーデの最後の一節である。

 曲が短く終わると車掌が「皆さんおはようございます。列車はただいまーー」と放送を始めるのだ。この曲が実に爽やかに聞こえるのである。その後車内放送の前奏に「汽笛一声」の曲が流れるようになった。

 かつて東北新幹線が仙台までしか開通していなかったころ、仙台以北の急行列車でも車内放送の前奏に「メロディー」を流した。例えば列車が古川駅に近づくと、この地方の有名な民謡「お立ち酒」のワンフレーズが流され、盛岡駅に近づくと有名な「南部牛追い歌」が流された。いかにも東北本線である。

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2017年7月28日 (金)

2017年7月アイビー随筆

アイビー随筆 7月号
 アイビー随筆「斎藤報恩記念会館」
             37年 理学部卒 大内建二

 アイビー会のメンバーの多くの方々は「斎藤報恩記念会館」をご存じないのでは?と思っている。本会館はかつてのプラザホテルに隣接して建っていたが、現在は平成11年の同記念事業の解散により会館は消滅している。
 本会館は江戸時代に庄内の本間家に次ぐ日本で二番目の規模の豪農と言われた、桃生郡の斎藤家の当主である斎藤善右衛門が、戦前の昭和8年に学術振興のために建設した建物で、完成当時は旧宮城県庁に匹敵する規模のビルであった。
 ビルの外観は東京・上野の国立科学博物館を縮小したような酷似した建物で、昭和10年前後のビル建築スタイルを見事に表現した建物であった。ちなみに同じ時期に建てられた現存する仙台市内のビルに、上杉の北一番町にあるかつての簡易保険局ビルがある。
 斎藤善右衛門(代々当主は同名)は明治時代に代議士となり、特に日本の科学教育の普及に貢献した篤志家でもあった。斎藤報恩記念館の中には自然史科学博物館がワンフロワー開設されており、そこには日本でも希少な中生代のアロサウルスやトリケラトプス等の恐竜の化石を見ることが出来た。私は昭和50年代の後半に一度訪れたことがあったが、この展示物には驚かされた。上野の国立科学博物館の一階ホールにも、この博物館の目玉展示物であるアロサウルスの化石が展示されているが、まさか仙台のこの目立たない博物館に展示されているとは! まさに驚きであった。なおここに展示されていた資料の総ては会館の解散に伴い、上野の国立科学博物館に寄贈されている。
 この建物は昭和40年代に入り周囲にビルが立ち並ぶと、その中に埋没されいつの間にか忘れ去られた建物になってしまっていた。
 実は仙台にもう一つ自然史博物館があるのをご存じだろうか。東北大学の青葉山キャンパスの理学部施設内に、「理学部付属資料館」という比較的大きな施設がある。ここには仙台市やその周辺で発掘された様々な動植物の化石が展示されている。青葉山の龍ノ口渓谷で発掘されたナウマンゾウの化石も展示されている。市内見物のループルバスもこの施設前に停車するので、ご興味ある方はどうぞ。

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2017年6月 6日 (火)

2017年6月アイビー随筆

アイビー随筆「昔の会話」 

     37年理学部卒 大内建二

 

 ここ40~50年の間に、日本から急速に姿を消していったものの中に各地方特有の方言がある。姿を消していった最大の原因はテレビの普及であろう。全国津々浦々までテレビが普及してから既に50年以上になる。

 テレビは人を引き付ける不思議な文明の利器である。話される言葉は十分に標準語の話し言葉の訓練を受けたアナウンサーによって発せられる。今や東京近在に住まなくとも標準語は普及している。確かに地元の人々同士で話す言葉は方言で十分であろう。しかし何故か彼らが都会、それも東京付近に出かけた場合やそこに住んだ場合には、彼らの言葉は直ちに所謂標準語に代わるのだ。

 標準語と称するものは江戸が東京に変わり、そこに日本の中心が移されてから、なし崩しに東京で使われる言葉が標準語に「成り上がった」ものである。もとをただせば江戸の庶民が使っていた言葉が起源である。

 ここで不思議なことが考えられるのだ。戦国時代や江戸時代には全国諸藩の武将や殿様たちの会話には、共通認識の標準語という話ことばはなかったはずである。互いの強い方言同士の会話で互いの意思疎通を図る時に、彼らは互いにどんな言葉で会話をし、互いの意思疎通を図っていたのであろうか。特に津軽や荘内地方の難解な方言を使う武士や殿様たちが、同じく理解不能な薩摩や土佐の言葉を話す武士や殿様たちと意思疎通を図ろうとするときに、どのようにして互いは理解し合ったのであろうか、ということである。

豊臣秀吉は伊達政宗と面会した時、どのような言葉で会話していたのであろうか? 興味津々である。第一言葉が通じたのであろうか? 方や生粋の尾張弁。方や生粋の訛り入りの宮城弁。

 答えは案外に簡単なようである。学者殿に聞いたら、文章の書き言葉は平安時代の昔から全国共通であったもので、会話を書き言葉に置き換えれば、言葉に多少の訛りが入っていても理解しあえた、とのことである。

考えてみればそのとおりだ。古文書の書き言葉に訛りはなく全国共通である。しかし随分と堅苦しい会話ではなかったかと、思わず可笑しくなる。

 江戸時代になり参勤交代が制度化されると各藩の江戸在勤のものが増え、帰国すれば江戸言葉は地元でも話され、次第に江戸言葉が全国共通の言葉として普及していったらしいのである。 

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2017年5月 7日 (日)

2017年5月アイビー随筆 

アイビー随筆 5月号

 アイビー随筆「苗字」 37年 理学部卒 大内 建二

 自分の家のルーツというものは知りたくなるものである。その前に日本にはどれほどの苗字が存在するのか調べてみました。なんと全国には11万7000もの苗字があるそうだ。その中でも数の多さのトップファイブは、1位:佐藤、2位:鈴木、3位:高橋、4位:田中、5位:渡辺だそうである。

 一方全国に僅か5戸以下という希少・珍苗字もある。凸守(デコモリ)、小浮気(オブキ)、雲母(キララ)等まさに珍苗字である。

 ところで我が大内姓であるが、全国順位では357番目になるそうで、戸数で57400戸だそうだ。驚いたのだが大内姓は宮城県、福島県、茨城県に集中しているそうである。確かに宮城県では県北(栗原、気仙沼)、県南(角田、丸森)に多いことは知っていた。父親は気仙沼出身で、そのルーツは家系図によると、遠くは戦国時代の羽前(山形県方面)の戦国武将、最上家の家臣であったそうだ。しかしいくら過去帳を調べたとしても、400年も前のことは正しいかどうかは全くの眉唾になる。

 私の過去の生活の中には結構な珍苗字の友人や知人がいた。小学校から大学にかけての友人の中には、印田(インデン)、布(ヌノ)、鰀目(エノメ)、庵地(イオジ)、内匠(タクミ)、胡桃(クルミ)等がいた。また仕事上で知り合った中には扇子(センス)、業天(ギョウテン)、棒(ボウ)、熊(クマ)等のまさに珍名さんがいた。

 苗字の中には聞いただけで何県の出身者であるかを、高い確率で言い当てられる人もいる。玉利、薬丸、肝付、東郷と言ったら生粋の鹿児島県出身である。菅原、小野寺、葛西、早坂と聞いたら、彼らは高い確率で岩手県と宮城県の出身であるといえるのだ。

 面白いことに全国第二位の鈴木姓は、大阪以西では激減するのだ。そして北海道は珍苗字の宝庫である。一度調べてみると面白いですよ。

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