アイビー随筆

2019年9月 1日 (日)

2019年9月アイビー随筆

アイビー随筆9月号

 アイビー随筆「荒天」

              37年理学部卒 大内 建二

 9月は昔から台風来襲の月とされていた。「210日」や「220日」は慣用語で、台風は必ずこの日の前後数日の間に来襲するとされており、事実私が子供の頃は不思議にその通りであった。しかしここ20~30年来様相が変化している。地球温暖化のためか台風発生のメカニズムに狂いが出てきたようである。

 昭和29年以降、日本の台風観測は米軍の管轄から日本に移管されたが、当時は海上保安庁の気象観測船が南方洋上に数隻配置され、気象の定点観測を行い台風の予想進路もその情報に従っていたのである。ただこの定点観測船の乗り組みは尋常ではなく、台風最接近の海域での観測は「死の危険」と常に向かい合う過酷な環境にあったという。

 私の竹馬の友の一人に海上自衛隊の護衛艦乗りの士官がいた(数年前他界した)。彼は海上自衛隊の南極観測支援艦の「ふじ」や「しらせ」で合計7回も南極に行っている。海上自衛隊の記録保持者である。

 彼の体験談が凄い。南極に近づく直前の南緯60度付近の海域は年中暴風圏にある海域なのである。ここを通過するのは船の乗組員にとって相当の覚悟、それも観測艦は砕氷構造という特殊な構造のために、船底の構造が一般の船と大きく違い、そのためにローリング(横揺れ)は尋常ではないそうである。

 彼は航海科士官であるために常に艦橋勤務であるが、この暴風圏を通過する凡そ三日の間、艦のローリングは常に三十度を超すそうで、彼の経験では最大47度まで傾いたという。感覚としてはまさに「8000トンの艦が横倒しになり沈没する」という感覚になるそうである。あらゆる手摺りに掴まり、それでも船を進めるための指示を出さなければならないのだ。休憩時にベッドでの安眠など、激しいローリングのために体が投げ飛ばされそうになり、出来るわけがないという。正に不眠不休の三日間であるという。

 「任務と責任感が恐怖に打ち勝つ」三日間で、このような状態の三日間は食事は全て「にぎりめし」と「携帯口糧の缶詰」だそうだ。厨房では調理など出来るわけがないのである。手すりや柱に掴まりながら無理やり握り飯や缶詰を胃に押し込む作業を強いられるのである。

 かつての大型の南氷洋捕鯨母船の乗組員たちも同じ経験をしていたはずであるが、船体の構造が違うためにここまで過酷な事態にはならなかったそうだ。

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2019年8月 1日 (木)

2019年8月アイビー随筆

アイビー随筆8月号
 アイビー随筆「セミの声」
            37年理学部卒 大内 建二
 俳聖松尾芭蕉が「奥の細道」で詠んだ俳句の中に、山形県の山寺の立石寺で詠んだ「静かさや岩にしみいる蝉の声」という有名な句がある。これは芭蕉が元禄2年(1689年)5月27日(新暦の7月13日)に山寺訪問の際に詠んだ句であるが、それから240年後にこの俳句に関する一大論争が持ち上がったのである。
 山形県上山出身の歌人で精神科医の斎藤茂吉(医師で小説家の北杜夫の父)と、東北帝国大学教授小宮豊隆氏との間で昭和4年に「この蝉は何蝉か?」と言う他愛もないことで論争が勃発したのであった。
 この論争は3年後に決着がついたが、決着の行く先は「ニイニイゼミ」説であった。斎藤茂吉は「アブラゼミ説」を譲らず、小宮教授は「ニイニイゼミ説」を譲らなかったのである。
 こんなことは子供たちに聞けば簡単に決着がつくはずなのである。東北地方でアブラゼミが鳴きだすのは7月下旬(7月20日以降)は常識。斎藤茂吉は早くから東京に住んでおり、東京地方でアブラゼミが鳴きだすのは7月上旬頃からである。夏休みに入る頃はアブラゼミはワンワン鳴いていたことをよく覚えている。そして不思議にこの頃になるとニイニイゼミの声は聞かれなくなるのだ。
 ただ芭蕉がこの句を詠んだ7月半ばは確かに両蝉の「端境期?」である。論争もムベなるかなである。 近年温暖化の影響かセミの生息地域に変化が出てきているのである。ミンミンゼミを一回り大型にしたような「クマゼミ」は、本来は近畿地方以西の暖かい地域にしか生息していなかったのであるが、近年関東地方南部でもクマゼミの声が聞かれるようになったそうだ。「シワシワ」という独特の鳴き声から、山口県や一部九州地方ではこのセミを「ワシワシゼミ」とも呼んでいる。私が転勤で広島に住んでいた頃、夏になると朝から自宅近辺ではこのセミの大合唱が始まりうるさかったことを覚えている。

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2019年7月 1日 (月)

2019年7月アイビー随筆

アイビー随筆「山岳展望」

            37年 理学部卒 大内 建二

 今年の10連休の最中の5月4日、無風のあまりの上天気に誘われ、大好きな飛行機でも見に行こうかと思い、長町駅から仙台空港駅まで電車で出かけた。20分弱で仙台空港駅に着いて驚いた。

32年ぶりに訪れた仙台空港は大変化。当時は仙台市内からバスで仙台空港まで行かなければならなかったが、今は改札を出ると何とすぐ目の前がチェックインカウンター。日本中で最も便利な空港だ。

 幾つもの売店やレストランの賑わいにひと驚き。エレベーターで屋上展望デッキに出て驚いた。飛行機を見るどころではなかった。快晴の何処までも澄み渡る穏やかな空の下、遥か北には何と雪を被った栗駒山が見えるではないか。そして七ツ森の独特の山塊の左に泉ヶ岳、その左に雪を頂いた船形山の雄姿。そしてそれに続き大東岳に面白山、更に山形神室岳から雁戸山の連なり、そして雪を頂いた蔵王連峰の雄姿、目を左に移すと驚いた。遥か先には福島県の名峰吾妻山塊が見えるではないか。北から南までその距離160キロメートル以上ある。

 仙台空港の展望デッキがこんなに素晴らしい山岳展望の場所とは思いもよらなかった。私は登山自体は好きではないがいわゆる「山岳展望」は大好きである。「あの山は何々山、こちらの山塊は何々山の群れ」等と「山座同定(山の名前を確認すること)」するのが大好きで、車であちこちの峠道に行っては山岳展望を行うのは楽しい。但し日本中の山の位置と地理と名前を熟知していないと出来ない技である。些か自慢ではある

 私は国土地理院発行の二万五千分の一や五万分の一の地図を眺めるのが大好きである。一枚の地図を眺めると文庫本一冊を読んだほどの感慨や妄想が浮かんでくる。おかげで我が家の地域別の大型地図帳「マップル」は既にボロボロである。

 新幹線で東京に向かう時には様々な山岳展望が楽しめる。利根川の橋梁を渡る頃前方に奥多摩の山塊が見えてくるが、その中で御岳山(ミタケサン)神社のご神体の山である大岳山(オオダケサン)が潜水艦の司令塔のように見えてくると、これは東京が近いサインである。

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2019年6月 6日 (木)

2019年6月アイビー随筆

アイビー随筆6月号
 アイビー随筆「埋もれ木細工」
                 37年 理学部卒 大内建二
 仙台には三つの有名な工芸品があった。「あった」というのは現在では僅かにその命脈が保たれているだけで、何時消えるかわからない燈明のような存在になっているからである。三つの工芸品とは「堤焼」、「玉虫塗」そして「埋もれ木細工」である。中でも玉虫塗はその奥深い色合いが何とも上品な塗り物で、正に廃れてはならない「JAPAN(日本特有の漆塗りの英語表記)」なのである。一方「埋もれ木細工」は亜炭を加工して作り上げた置物や壁掛けなどの加工品であるが、現在ではほとんど見ることが出来ない。現在は秋保に細工人が一人、細々と伝統細工を続けているだけである。
 亜炭は石炭の中でも最も若年齢の、いわば石炭の幼稚園生とでもいうべき存在のものである。熱量の高い瀝青炭は二億年以上前の古生代の石炭紀の森林の化石であるのに対し、亜炭は500万年前の後期新生代の植物の「化石」で、まだ熟成されていない石炭なのである。
 亜炭は炭化が進んでおらず着火性が悪く熱量も低いが、戦時中や終戦後の燃料不足時代に薪の代わりに大量に使われたのだ。宮城県は日本でも有数の亜炭産出地で、仙台の太白区の八木山や大年寺山周辺は亜炭の産出地として有名であったのだ。事実太白区向山や八木山南、芦の口、青山、土手内などには大小無数の亜炭採掘場があった。私が会社の仙台支店に転勤して来た昭和55年頃、住まいのあった芦の口地区でも、すぐ裏山の崖には幾つものトンネルの跡のようなものが存在したが、これらは皆付近の住人が掘った自家用亜炭の採掘用のトンネルだったのだ。これらの中でも最大級の亜炭採掘場は八木山南住宅地近くにあったトンネルで、ここで掘り出された亜炭は専用に敷かれた線路上をトロッコで西多賀(現在の国道286号西多賀交差点付近)迄運び出され、健在であった秋保電鉄の貨物列車で長町まで運ばれ、仙台市電の貨車で仙台市内まで運ばれ市内の家屋の風呂や台所の竈の燃料となっていたのである。
 亜炭は細工を施し磨き上げると黒く光沢のある見事な置物になるが、仙台藩の昔から貧乏武士達の内職工芸品として有名であったのである。
 昭和40年代に入る頃からのガスや石油ストーブの普及で亜炭の需要は急激に減少し、それと共に埋もれ木細工も消えていったのだ。
 国道4号線沿いの三本木付近にある亜炭資料館には、10トンという巨大な亜炭の塊が展示されている。一度ご覧あれ、ビックリします。

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2019年4月 2日 (火)

2019年4月アイビー随筆

アイビー随筆4月号

 アイビー随筆「夜汽車」   37年理学部卒

                  大内 建二

 「夜汽車」という言葉は今ではほぼ死語になっている。演歌の歌詞の中では時々聞かれるが、そこに醸し出される背景は哀愁のこもった情景である。「夜汽車の窓のはるか遠くに見える人家の灯火」、などはその代表的な雰囲気であろう。

 夜汽車とは同じ夜行列車でも特急寝台列車などを指すものではない。昭和40年代頃まで普通に見られた夜行の長距離鈍行列車を指すのである。急行券や寝台券を買う余裕のない貧乏学生にとってはかけがえのない「動く安宿」であったのだ。故郷に帰省する、或いは長距離旅行をする場合には学生の格好の移動手段であった。

 記録に残る日本最長距離の「夜汽車」は、昭和30年代前半まで存在した「東京発門司行」の普通列車であった。全行程1100㎞、所要時間31時間41分。午後2時20分に東京駅を出発し門司着が翌日の22時1分である。

 私が大学2年生の時に所属するサークルに宮崎県都城出身の新入部員が入部してきた。小柄だが頑固そうな頑丈な体躯の学生だ。彼は年に冬休みだけ故郷に帰省した。往復の交通費を倹約しさらに長距離の急行料金を倹約するために帰省は年一回とし、わざわざ往復の東京・都城間も普通鈍行列車に1500㎞乗車したのだ。苦難の旅だ。

往復交通費は現在の価格にして鈍行列車に乗っても30、000円はかかった。急行に乗ればさらに片道6,000円もする高い急行券を買わなければならず、彼の年に一回の帰省の往復は、東京から都城までの往復を常に門司駅で日豊本線乗り継ぎの「鈍行列車」を使ったのである。片道全所要時間43時間04分。二昼夜鈍行「夜汽車」の旅である。九州を代表する我慢強い「肥後もっこす」のような頑固人間でなければ、音を上げる技である。

 先日ツラツラと指折り数えたら、私は生涯で35回も「夜汽車」に乗っていた。最長時間は上野から盛岡の二つ先の滝沢駅までの544・3㎞。鉄道ファンであるからこそ出来ることで、所要時間は14時間45分で食べた駅弁は二食。寝不足と尻が痛くなった記憶が蘇ったが、都城男児のまだ三分の一の距離なのだ。

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2019年3月 7日 (木)

2019年3月アイビー随筆

アイビー随筆3月号
 アイビー随筆「珍木」
             37年理学部卒 大内 建二
 日本国内にはほんの僅かしか生育していない誠に珍しい樹木が存在する。その代表的な樹木に「レバノン杉」」がある。中東のレバノン国の国旗のデザインは風変わりである。旗の中央に緑の一本の樹木が描かれているが、これがレバノン杉である。レバノン杉は紀元前2000年以前から優れた船材として、古代フェニキア人の間では貴重な貿易品として周辺諸国に輸出していたのだ。現にエジプトのクフ王の墓からは全長二十メートルを超える、レバノン杉で出来た船の副葬品が出土されているのだ。
 レバノン杉は現在の中東のレバノンを中心に、シリア、トルコなどにも広く繁茂していたヒマラヤスギの仲間であるが、その樹形は独特である。船材として乱伐の結果、西暦千年頃には既に枯渇してしまっていたのだ。
 現在レバノン杉はレバノン国内の「カディーシャの森」という東京ドーム程度の広さの森だけに生育しており、世界遺産として厳重に管理されている。実は日本には現在3本のレバノン杉が「生存」している。既に樹齢150年を越えているはずである。
 明治20年にレバノン国が日本との国交を開始する記念として数本のレバノン杉の若木を日本に送り届けてきたのだ。その中の3本が現存している。東京の新宿御苑に2本、赤坂迎賓館の裏庭に1本。旗のデザインと同じ独特な樹形のレバノン杉、機会があったら一度ご覧あれ。
 仙台野草園にも1本の珍木が植わっている。公園の中央広場の片隅に植わっている「ハンカチの木」だ。4月頃、まるで真っ白なハンカチの中央を摘み垂らしたような姿の花が咲く。正に真っ白なハンカチが垂れ下がっているような花を咲かせる珍木である。この木は日本では他に東京都内に数本、その他には宮崎県の某公園に多少植わっているだけのまさに珍木中の珍木なのである。暖かくなったら一度野草園に行かれては。

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2019年2月 3日 (日)

2019年2月アイビー随筆

アイビー随筆2月号

  アイビー随筆「コロッケ」

             37年理学部卒 大内 建二

 コロッケは日本を代表する「純日本の洋風総菜」である。昭和2年に東京下町の定食店「長楽軒」の亭主が考案し、客に出したのが日本初のコロッケと伝えられている。もともとフランスには肉や魚を固めのホワイトソースでくるんで衣をつけて油で揚げた「クロケット」という料理があるそうだが、亭主は何処からかこの知識を仕入れ、自己流に茹でたジャガイモをつぶし、玉ねぎのみじん切りとひき肉を混ぜ、小判型にまとめて衣を付けて挙げたものを考案し、「コロッケ」と名付け客に出したそうである。ところがこれが大受けし客の評判となり、たちまち東京中に知れ渡り一躍「コロッケブーム」が沸き起こったのだ。現に昭和初期には日本中にこの

ブームをもじって「コロッケの歌」という歌が大流行した。

 私もこの歌を何故か知っている。「女房もらってうれしかったが、出てくるおかずがコロッケ、コロッケ。今日もコロッケ、明日もコロッケ、これじゃ年がら年中コロッケ―。わっははのわっははのこりゃ可笑し」という何ともおどけた歌詞で、その曲も如何にも昭和初期を彷彿させる素朴なメロディー。当時超有名なコメディアンであった「エノケン(榎本健一)」が歌い、一躍有名になったのである。

 私は家では比較的料理をする男性であると思っている。その中の得意なレパートリーの中にコロッケがある。ただジャガイモを潰しひき肉と玉ネギを混ぜれば良いというわけにはゆかない。材料により味が大きく変わるのである。ジャガイモは北海道産の男爵イモに限る。挽肉は合挽が最も美味しくなる。衣は市販品の中でも「やわらかい」ものが最適。但し味の加減は難しい。ジャガイモを潰すときにはバターを加える。男の料理というものは何故かこだわりが多くなり、女性からは敬遠されがちになる。

 コロッケの形は一般的には小判型であるが、私は俵型で成形する。そして多めに作り翌日の昼飯にも食べるのだ。この場合温めなおすのは禁物。冷めたままの翌日のコロッケはカレーと同じく一日置くと何故か一層美味しくなる。

 この純日本風「クロケット」は最近来日する外国人観光客に結構な人気だそうで、特に東京の谷中商店街の小さなコロッケ屋はガイド本にも紹介されているらしく、毎日沢山の外国人観光客が訪れ一個80円のアツアツのコロッケを買い、楽しみながら食べ歩きしているそうである。中にはレシピを持ち帰り帰国してから作っている人もいるそうだ。

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2019年1月 4日 (金)

2019年1月アイビー随筆

アイビー随筆1月号

 アイビー随筆「お正月」

               37年 理学部卒 大内建二

 「あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します」

で始まる年賀状も近年は減少の一途をたどっているとのこと。年賀状を出さない人の大半は若い世代なそうであるが、彼らはわざわざ面倒な賀状を出さなくとも、携帯のメールで「あけおめ」で済ますことが出来るのだ。時代は大きく変わりつつあるのだ。ところが最近では高齢者が年賀状を止める宣言の、「終活年賀状」というものまで現れたそうである。

 近年人々は字を書かなくなった。携帯でもパソコンでも指先を使えば「字を書かなくとも字が書ける」のだ。しかし弊害は大きい。字を書かなくなった代償は「書く字が著しく下手になっている」ことにつながる。

かく言う私も例外ではない。以前であれば一度に何万語もの字を原稿用紙に書かなければならなかったことが、指先チョイチョイで代用できるのである。「それでは駄目じゃん」と言われても仕方がない。

 大体お正月の様相が全くの様変わりである。今は凧揚げや羽根つきなどをやる子供など全く見かけない。お正月料理にしてからがそうだ。デパートやスーパーに頼めば大みそかまでにはおせち料理が届く。主婦にとっては誠にありがたいことだが、その内容は昔懐かしい純日本風の料理が激減しているのだ。主流はハム、ソーセージ、ローストビーフ、鶏のから揚げ

等々,我々の大学生の頃であれば“やせ我慢”して「ケトウ(これは明治時代に生まれた西洋人を指す用語。今では差別用語として使えない)の食い物だ」と蔑んだであろうが、その半面食欲を注がれる食べ物なのである。このケトウの食べ物が主流になった反面、主婦たちは田作りや煮物が出来なくなった。

 仙台の正月料理といえば「ナメタガレイ」が定番であるが、これも主流になったのは昭和50年代に入ってからのようだ。それまではキチジやメヌケの煮物が主流であったはずである。しかし現在ではこの二つは「ナメタ」より遥かに高価な食材になっている。私などはここ何年も食べたことがない。平時でもアジくらいの大きさのキチジが目の玉が飛び出るほど高価になっている。

 仙台の正月料理はクルミ餅や納豆餅そしてずんだ餅で十分ではないか。そういえば杵と臼で餅を搗く光景は余程のイベントでない限り、一般の生活からは消え去っている。餅は全て機械でつかれたものである。食感に何となくザラザラした感じの残る「臼・杵」コンビの餅が食べたい。

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2018年12月10日 (月)

2018年12月アイビー随筆

アイビー随筆 12月号
 アイビー随筆「運転経歴証明書」
           昭和37年理学部卒 大内 建二

 私が自動車運転免許証を取得したのは43歳の時であった。会社の仙台支店に転勤して来た時、自動車の運転が出来ないことが如何に不便であるかをイヤというほど体験し、一念発起し市内の花壇自動車学校に通い運転免許証を取得した。以来34年間でマイカーや転勤先の営業車を運転した総距離は49万7千キロメートルに達した。地球の赤道上を12周し、地球から月までの距離の六割を走ったことになる。
 しかし2年前にマイカーの車検切れを機会に運転を止めた。免許証を更新したばかりであったが、同乗する家内が「最近見落としが多いみたい」という言葉に気が付かされた。確かに信号の見落としや案内板の見落としが増えている感じなのだ。
 製造会社には「ヒヤリハット防止運動」というものがある。これは「ヒヤリ」や「ハッ」とする体験が10回重なると必ず重大事故に繋がる、という事に対する戒め運動なのだ。近年高齢運転者の運転事故が多発している事は皆さんご承知の通り。高齢運転者は頑固さを増すに従い「自分は大丈夫」という信念が逆に強固になってくる。大丈夫と思っていても確実に反応が鈍くなっていることが自覚できないのだ。
 思い切って運転を止めた。自分や家族のための重要な安全対策でもあるのだ。8月初めに南警察署の交通安全協会を訪れ「免許証返納」を申し入れた。2週間後に「運転経歴証明書」が出来ましたとの連絡が入った。受け取りに行くと「ご苦労様でした」と一言言葉をかけられたが、渡された「運転経歴証明書」は免許証そっくりである。しかし自慢であったゴールドのラインが入っていたところが「グレー」の帯に変わっている。「俺はまだグレーの人間ではないぞ」とは言いたかったが、高齢者であることには間違いない。ありがたく頂戴した。身分証明書やタクシー割引証明として今後はこれを役立てよう。

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2018年11月15日 (木)

2018年11月アイビー随筆

アイビー随筆11月号

  アイビー随筆「観月楼」  

            37年理学部卒 大内 建二

 先日の河北新報の県民欄に、昭和26年当時の松島の観月楼の写真が掲載されていた。懐かしくなり今月はこの観月楼について一筆することにした。

 松島海岸通りから瑞巌寺に入る参道入り口の右角に、ひと際目立つ珍しい木造の三階建ての旅館風の建物がある。明治初年に建設された旅館「観月楼」であるが、旅館業は昭和40年代初めには廃業し現在は1階を土産物の店舗として営業している。風格のある建物で現在は宮城県の有形文化財に指定されている。俳聖正岡子規が20代の初め、松尾芭蕉生誕200年を記念して松島に来訪した時、彼はここに宿泊したと記録されている。

 私の中学3年生(昭和28年)の秋の修学旅行は中尊寺・松島・仙台の3泊4日(鈍行列車の車中2泊、旅館1泊)の旅であったが、唯一の宿泊旅館が観月楼であった。3階の目立つ角の客室が我々クラスメート10名にあてがわれた。今から思うと全くの贅沢であったのだ。窓からの松島海岸と島々の眺めは素晴らしかった“ように”記憶している。夕食に何を食べたか、どのようにして生まれて初めての「外泊」を楽しんだか、全く記憶にないが、旅館前の海岸で写されたクラスの集合写真を取り出して見たが、観月楼の姿は映っていない。

 それから27年後に会社の仙台支店勤務となり、幾度となく松島海岸通りを車で通過したが観月楼の姿はそのままであった。しかしこの頃には2階と3階の客室側の廊下にはカーテンが引かれ、旅館の営業はやめているようであった。そして1階は広い土産物売り場に変わっていた。有名な五大堂は旅館の目の前である。

 先年の東日本大震災の時、松島は正に奇跡的に巨大津波による甚大な被害は免れた。勿論受けなかったとはいっても海岸通りの建物1階は全て津波にやられ、瑞巌寺境内も被害を受けた。もちろん観月楼も1階は被害を受けたが、建物の破壊は免れた。松島湾の無数の大小の島々が防波堤となって津波の勢いを削いでくれたのである。

 観月楼の3階の屋根の四方の張り出し構造は独特で象徴的である。城の天守閣を思い起こさせるものがあり、有形文化財の貫録十分といった姿である。

 毎年秋になると何故か中学3年生の時の東北修学旅行が思い出され、真っ先に観月楼を思い起こすのだ。

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